彼女は水底を見た

初詣に行く橘なゆと由井・鶴水・マリ(登場人物が多い)

なゆと話すと少し冷たさがほどけるけれどやっぱり底が見えない由井を書きたかった話

 

 

-----

1月1日、年の初めの正午を過ぎたころ。

家からすこし遠い、大きな神社に初詣に行きたいと言った七夕希は、寒くないようにとしっかり着込んだ姿で橘の手を引く。境内は華やかな服装を装う人々で大いに賑わっていた。

「思ってたよりも人がたくさんだね」

「うん」

「もう少し早く行くべきだったかな。でも、今朝は橘くんが……」

夕希はにやりと橘を見る。そもそも、今日は初日の出を見てから、そのまま神社へ行くつもりだったのだ。

……けれど、視線を向けられた彼は朝になって「やっぱり行かない、さむい、眠い」と毛布をかぶって起き上がらず、結局七夕希と白鳥と笑涙で昇る朝日を見ることになった。

今朝のことをちらつかせたものの、七夕希は大して気にしていない。マイペースなのは彼の個性であり、好きなところだ。が、橘自身はもっと気にしていなさそうに「朝は寒かったね……」と他人事のように呟いた。

空はぼんやりと曇り灰色。昼下りの神社は人が絶え間なく行き来し、拝殿の鈴の前には行列ができていた。二人もその列に並んで参拝の順番を待つ。

 

-----

 

二人はやっと賽銭箱の前までついて、用意していたお賽銭を投げて鈴を鳴らし、拝殿に手を合わせた。

参拝を終えて来た道を戻ろうとしたとき、七夕希がふと立ち止まって人混みをじっと見る。

「あれ?橘くん、ちょっと待って……あ!」

「え、ちょ、なゆ……」

何か見つけたのか、七夕希は橘を置き去りにして駆けていく。橘はすこし遅れてその後を追うけれど、彼女の先にいたのがよく知る人物だと分かって立ち止まってしまう。

「由井さーん!」

「……ん?あれ、」

「ウソ!?なゆちゃんだー!偶然だね、明けましておめでとう!」

突然の事に戸惑う由井をさえぎって、マリが笑顔で挨拶する。その奥には、背の高い鶴水が何も言わずに七夕希をじっと見ていた。

「マリちゃん!鶴水さんも!偶然見つけたから、走って来ちゃいました……明けましておめでとうございます!」

「びっくりしたよ。明けましておめでとう、七夕希ちゃん。……ところで、また迷子?」

「えっ?あれ?橘くんもいるんです!」

中途半端に距離を保って立ち止まっていた橘は、七夕希に手招きされて渋々その集まりの中に近づいた。

「……今年もよろしく」

橘は小さな声で一応の挨拶をした。由井はその態度に触れもせず、機嫌が良さそうだった。

「年明け早々君たちに会うなんてね。こちらこそ宜しく」

「なゆちゃんと橘くんが一緒にいるの初めて見たかも?初詣って、橘くんカワイイとこあるじゃん。今年も仲良くね!」

「……余計な世話なんだけど」

冗談を言うマリに橘は不機嫌そうに目を逸らしてしまう。

「マリちゃんと由井さん、着物きれいです!似合ってます!」

二人は初詣らしく、和装の佇まいだった。マリいわく、仕事ばかりな由井は意外にも、こうした行事は重んじるタイプらしい。

「あの、鶴水さんは……寒くないですか?」

鶴水の服装はと言うと、着物に羽織を重ねている二人とは対照的に、マフラーのひとつも巻いていない。いつものワインレッドのシャツの上にライダースを羽織っているだけだった。

「あ?なんでだよ、寒くねぇよ」

鶴水は相変わらずぶっきらぼうだった。が、七夕希はその返答でほんとうに鶴水が寒くないのだと分かって安心した。七夕希は以前にとある事情で彼らのいる街から家まで鶴水にバイクで送ってもらったことがあり、それ以来鶴水のことを『なんだかんだ優しい、橘くんと同じ部類の存在』だと思っている。

「鶴水ね……。季節感というか、浮いてるでしょ」

由井は肩をすくめて笑ってみせる。

橘は鶴水に聞こえない程度の声で「やば、ナントカは風邪ひかないってやつじゃん……本物だ……」と小さく由井と話しながら、その強靭さがツボに入ったらしく肩を震わせていた。

「鶴水さん、強くてすごい!そういえばなゆがバイクに乗せてもらったとき、寒すぎて上着貸してもらったっけ……」

「いや、アレはさすがに俺も寒かった」

「えっ!ご、ごめんなさい!あの時はほんとうに……」

真顔で答える鶴水に七夕希は慌てて謝った。あのときは寒そうなそぶりを見せていなかったが、よく考えれば上着を借りた自分に心配をかけさせないためだったのかもしれない。

「そ…そうだ!あの、せっかくなので!みんなでおみくじ引きに行きませんか?」

「うん?いいね、行こうか」

夕希の提案に、由井は子供をあやすような柔らかい声色で応える。

「よしっ、大吉引きにいこう!ほら悠も橘くんも!」

マリに呼ばれて橘はその隣に並んだが、鶴水は面倒な顔をしながら急ぐ事なく無言で後ろをついて行った。

 

-----

 

神社のおみくじは、古い棚に小さな引き出しがざっと100は並んでいる。傍にある大きな筒を振り、出てきた一本の棒に書かれた番号の引き出しからみくじ紙を取り出して運勢を占う仕組みだった。

「由井さん、さいしょに引きますか?」

由井はふむ、といった顔をして「僕はきっと、最後がいいな」と七夕希に言う。わかりました、と七夕希が筒を一生懸命振った後は、橘、マリ、鶴水、由井の順番で回していき、それぞれ違う引き出しからみくじ紙を取り出した。

「みてみて!なゆ大吉だったよ!」

夕希はいちばんに橘に紙を見せて、目をきらきらさせた。

「俺も」

「二人ともいいなぁ!あたしは中吉だったよ」

鶴水は引いた紙に興味がないようで、ろくに内容も見ずくしゃりとポケットにそれをしまいこんだ。それを見てマリが呆れながら無理やりポケットから取り出して、大きな声で内容を読んでみせた。

「えーと、末小吉……待ち人案ずるな、待てだってさ!あはは」

それで、という顔で七夕希が由井を見ると、由井はごく自然な表情で、目を閉じて息を吐いた。

「僕ね。実は、これしか引いたことがないのさ」

そう言われて、七夕希『凶』と書かれた紙をひらりと渡された。すると、由井の代わりにショックを受けたかのような顔でその紙を見ながら、そんなぁ……と悲しそうな声を上げる。

「で、でも!内容を見ると意外に良いことが書かれてたりして……?」

願望、叶いにくいでしょう。病気、長引くでしょう。失物、戻らないでしょう。待ち人、現れないでしょう。……真剣に紙の隅から隅まで読む時間をおいて、よけいに顔を曇らせてしまう七夕希。後ろから橘もそれをじっと覗き込み、それから「いつも凶なの?」と笑った。

「すごいね、むしろ才能じゃん」

「ごめんなさい……なゆ軽率におみくじとか言っちゃって……由井さんに残念な思いを……」

「いやいや、毎回のことだし気にしてないからさ。君は神様じゃないんだし、ほら。正直オチにしては面白いかなと思って賭けたんだ」

だからある意味『当たり』なのさ、と由井は笑う。

「由井もよかったね、今年は由井の代わりになゆちゃんがこんなに悲しんでくれて」

「予想外に大きく受け止められて、なんだか悪いことした気分だよ」

勝手に責任の一端を背負った気持ちになった七夕希は、せっせと由井のおみくじを細く折る。びっしりと木にくくられたそれらのうち、橘に手伝ってもらい、より高いところにくくりつけた。

由井はされるがままで、木というより紙たちの拠り所になってしまった何かをすこし遠くからぼうっと見ていた。七夕希は駆け寄って声をかける。

「あの、由井さん。来年も一緒におみくじ引きましょう!」

「……え?」

由井にはその言葉が意外だったらしく、思わず聞き返した。

だって、今までがそうだったように来年も同じ結果で、それはきっと面白くはないだろうから。

「来年はきっと、いいおみくじが引けると思うんです。も、もしだめだったらその次も……」

「……はは、ありがとう」

否定も肯定もせず、ただ由井は笑った。

空はいっそう曇っていて、冷たく雪が降り始めていた。

 

-----

 

ほどなくして七夕希、橘と由井たちは別れの挨拶をした。2人になって、橘はふと思いついたように問いかけた。

「七夕希って、由井のことどう思う?」

夕希はきょとんとして、うーん……と難しい顔をして考え込む。

「すごく年上なのに、なゆが言うのも変だけど……放っておけないって思う」

「え、そんな風に見えてたの」

その答えに橘は苦笑いした。彼女は至って真剣な表情。ふた回りほど歳の離れている七夕希に心配されているだなんて、由井は想像しているだろうか。

「おみくじの時みたいに運が悪いのって……きっと神様が、誰かそばにいてあげてって言ってるんだと思うんだ」

それを聞いて、七夕希が彼に向ける感情が、自分や白鳥たちへのそれとは違う種類のものなのだと知る。神様は、おそらく一人で生きられる由井に、それでも必要な誰かを突き付けている。確かに、そうかもしれない。が、少なくとも、その存在は俺たちではなり得ないのだろう。あくまで隣人。七夕希はそれを無自覚に感じ取っていた。

「そっか。なんとなく分かったよ。あいつ、なぜか七夕希の前ではちょっと優しいんだよね」

「由井さん、いつもはあんな感じじゃないの?」

「正直、違うかな。全然違う。いつも何考えてるか分かんないし、怖いし」

「それ、由井さんもおんなじこと言ってたよ!ほら、前になゆと由井さんが雨宿りしてて、橘くんが傘を持ってきてくれた時。橘くんのことちょっと怖いってさ、ふふ。お互い誤解してるのかも!」

「うん……そうかもね」

彼女にはそう見えたとしても、当然、決して彼は"そういう人"ではないだろう。優しい、とはかけ離れすぎている。冷酷で隙がなくて、明るい世界で生きられないような人間だ。彼の仕事は言うなれば何処かの誰かを傷つけているものだし、ましてや自分がそれを手助けしていることを七夕希に言えるはずもない。ただ、そんな由井から怖いと思われていることは意外だった。

けれど、七夕希が言う『お互いの誤解』は解かないままでいいか、と橘は思った。

「あ、橘くん!ひとつ思いついたんだけど---」

 

-----

 

夕希たちと別れてから、鶴水は苛立ちを隠せないまま口を開いた。

「……俺、分からないんすよ。由井サンがあんなに入れ込む理由が」

あんなに、とは七夕希に接する態度のことだ。鶴水は付け加える。

「その理由が橘にあるとして。アイツにそんな媚び売る必要あるんすかね」

「さあ。どうだろうね……ひとつ言えるのは、残念だけど、今の仕事はお前一人じゃ足りないのさ」

突き付けられたのは役不足。普段ならともかく今由井の機嫌が損なわれることはなかったが、代わりに鶴水の頭の中ではふつふつと怒りがこみ上げる。視線を向ければ自分の何が不満なのか分からないと言わんばかりのしかめ面。たとえばこれ以上その怒りをぶつければ、返り討ちに遭うのは鶴水自身だというのに。それを想像できない浅慮な彼に対して、そういうところだ、と由井は胸中で笑った。

状況はどう転ぶか。まあ、今日くらいはその不満を受け止めてやろうかと思い黙っていると、今日二回目の呼び止める声が聞こえた。

「由井さーん!」

よく通る透き通った明るい声。振り向くと、呼び止めた彼女は大きく手を振った。辺りには橘の姿はない。一人で追いかけてきたようだ。

「二人とも、先に行ってて」

恐らくそう長い用事ではないだろう。これ以上隣にいる男を不機嫌にさせても面倒だと思い、由井は二人に車に乗っているよう告げた。でも……と不満そうなマリの腕を引いて、鶴水は駐車場の方へと向かって行った。

走ってきた七夕希が由井に追いつくと、引き止めてごめんなさいと言って、ポケットから取り出した小さな白い包みを渡した。

「これ、由井さんに渡したくて!さっき神社のお守りを見て、悪いことから守ってくれますようにって……」

「僕にくれるの?なんだか悪いね」

「そんな、全然……って、ほんとはなゆ、お財布忘れちゃって、買うために橘くんがお金を出してくれたんですけど!あの、一つしかないけど、マリちゃんと鶴水さんの分も守ってくれると思います!」

真剣に説明するさまが面白かったのか、あはは、と由井は小さく笑った。おそらく彼は、今日初めて本心で笑ったのだと七夕希は思った。そうして、由井からしたら些細であろうことが気にかかっている自分がなんだか恥ずかしくなる。

「じゃあ……」と早々に別れを告げようとした時、屈んで同じ目線になった由井と視線がぶつかった。意志を持った深いブルーグレーの瞳。その一瞬、心の奥を掴まれる。

「ありがとう。こんなにしてくれて」

夕希はその時確かに目を合わせたけれど、自分の中に渦巻く感情に揺れて何も返せなかった。だって、なんで、彼は笑ったのに私はせつないんだろう。目の前にいるのに、彼は何も映っていないような顔をするんだろう。

 

……それは澱みがかった穏やかな湖のその水底にひとり潜っていくような感覚で、きっと橘くんも、この深くて鋭い瞳のいちばん奥が見えなかったんだろうなあ、とぼんやり思った。


---

 

些細なことのはずなのに、胸がざわつく。鶴水は思い出していた。

そういえば、映画で観たのだ。マリが観ようとうるさいから付き合ってやった、ところどころしか覚えていない、もうタイトルも忘れてしまった映画。さっきまで暴虐のかぎりを尽くしていたマフィアが、なんの気まぐれか子どもを救ってやった。確か、その役者の見せ場だった気がする。わずかな善意を見せたあと、彼はあっけなく死んでしまった。「優しいところもあったのに」と観客の同情を誘うシナリオだったのだろう。何をしたって所詮運命は決まっているという裏付けのよう。それどころか、ひとたび弱みを見せたあの行動が招いた結末のようで、それが嫌だった。

短い回想を終えた頃。車で待機していた鶴水とマリに「お待たせ」と言いながら、由井は助手席に乗り込んだ。

座るなり、先ほど七夕希にもらった小さな黄色のお守りをポケットから取り出して無言で車のミラーにくくりつけた。それは小さい割に、黒く寂しい車内に不釣り合いと言わんばかりに存在感を放って揺れる。黙ってとなりで見ていた鶴水は動揺して思わず口を開いた。

「な……、何すか、これ」

「お守り。七夕希ちゃんがくれたんだ」

「わあ、なゆちゃんに?かわいい」

「もう分かんねぇ由井サンの事が」

「ハハ、冷たいこと言うなよ」

好きにしてください、と言わんばかりのため息をついてから、それきり黙ってエンジンをかけた。

ひそかにまた思い返してしまう。自分には一度も向けられたことのない表情をころころと『彼女』に見せた、まるで別人のような由井。

ふと考えると、由井の周りにおいて『彼女』は異質なのかもしれない。後部座席から雪が降るさまを見つめているマリの特別な感情とは別の、分け隔てなく平等に配られる心。感情の乏しい自分がそれでも例えるとすれば、つたない祈りのような。……それに触れたら、由井は案外鏡のように笑っただけのこと。

横目で由井を見ると、もう俯いて目を閉じていた。大丈夫だ、彼が起きたらきっといつも通り、瞳に冷たい色を浮かべているのだろう。どうにも居心地が悪くてかなわなかった胸の内を洗い流したくて、車内に置きざりにしていた缶コーヒーを飲み干した。痛みにも似た冷たさはすぐに身体の底まで沁みわたって、鶴水はやっと安堵した。

 

彼女の災難→俺の災難

大昔の話 由マリ(モブ男視点)です※気持ち少しだけえっちです

私は結構このお話がお気に入りなので、マリちゃんともうすぐ付き合えそうな男の子になった気持ちで読んでみてください

 

---

俺はつい最近この"為崎"に引っ越してきた。一駅向こうの街より家賃が安いからっていう至極簡単な理由でこの街に越してきた。為崎は田舎ってわけでもなく、むしろ賑やかだからこの家賃の安さは物件自体に問題があると思ったんだ。不動産屋は「何もないですよォ」とかうすっぺらい笑みを浮かべながら言ってたけど、あいつは正直うさんくさかった。キツネみたいな感じがした。けど条件のいい為崎の物件をいくつも並べて、それがぜんぶ格安だったから、考えるのをやめたのだ。俺はちょっと馬鹿だからな。

 

この街に来てから、人と話すことはほとんど無くなった。知り合いは1人もいない。コンビニのレジで「袋いいです」「あ、スプーン付けてください」とか言うくらいだ。店員はとてつもなく愛想が悪かったしボソボソ呟いてるし、会話のキャッチボールとかいうやつは全く無かった。ボールの壁投げだ。ちなみに俺が引っ越した理由は、親に追い出されたからだ。「しょーくんは一日中家にいてバイトしないつもり?!しょーくんそういえば大学はどうしたの?!しょーくんはどこに就職するつもりなの?!いつまでもこの家に住んでいられないのよ、出て行ってもらおうかしら!」まぁ、そんなことを顔合わせる度に叫ばれてたから、俺が自分で出て行ったっていうのもある。家から出て行った今、律儀に俺の口座に金を振り込むうちの母親にはありがたいと思うけど、そんなんだから俺は働かない。でもその金が本当に家賃と光熱費と食費でほとんど消えてしまうから、そろそろバイトを探さないといけないとは思ってる。思ってるだけで何もしてないけど。だってアレだろ、まずは街のこととかよく知ってからじゃないとさ、なんかアレじゃん。


為崎について分かったのは、とにかく物騒なことくらいだ。俺が前住んでた所は治安が良くて住人も温厚で、ていうかジジイババアが多かったから尚更だ。物件の下見に来た時は全く周りを見てなかったから気づかなかったけど、影のかかった壁にはありえないほどの落書きがある。かと思えばまっさらな建物もある。この差はなんなんだ?それに、やたら高級そうな車とか。これは夜によく見かける。あと、全体的に車の走行スピードがおかしい。もう明らかに規制速度の二倍くらいで走ってる。普通に信号無視とかしてるから、この短期間で俺は三度くらい轢かれかけた。ウィンカーも出さないから余計にだめだ。ここは老人が住めば一週間後には死んでる街だ。俺は一応普通免許を持ってるから分かるけど、こんな街で車なんか乗れない。まぁペーパーだし免許は親の金で取ったんだけど。夜になると賑やかになる地区もあって、この前そこをふらふら歩いてたら、どう見てもマフィアだろみたいな大男と目が合って死ぬかと思った。店の前にいる男や女は気にせずそいつを勧誘してた。こいつらは頭が狂ってる。関わるとそのうち死ぬやつだ。俺の本能がそう言ってた。


そんな物騒な為崎で、唯一、俺の癒しがあった。幸い俺の最寄りから一駅離れさえすれば比較的平和な区画もあって、洒落た建物が建ち並んでいたのだ。そこを見つけたとき、あぁ楽園だと素直に思った。客層も学生とかサラリーマンとかOLとか、どこにいたんだよって人種がここに集結していたのだ。なるほどここは安全なのだ。すぐに分かった。普通の人は他の地区には寄り付かないんだ。あいにく俺のアパートは危ない場所のど真ん中だったわけだ。不動産屋のキツネは心の中で笑ってたわけだ。俺は諦めてから、毎日ここで過ごそうと思った。そうして為崎の楽園を見つけてから、俺はとあるカフェに通い詰めることになった。そこは新しい造りの店で、木造で落ち着いた雰囲気の広いテラスがあって、いつもだいたい若者で賑わっている。店員は白いシャツに黒いエプロンを付けていて、可愛い子が多かった。最近はカウンターで注文してから席を取る所が多いけど、その店は小さなテーブルに座ってると注文を聞きに来てくれる。初めてそこに来たとき、店員の女の子が俺に話しかけてきたのだ。


「初めてですか?あそこ、空いてるからどうぞ。あとで注文聞きにきますね!」


花のような笑顔だった。


薄いムラサキみたいな、あんまり見かけない髪の色で、ひとつにまとめられていて、それがサラサラ揺れる。顔が、ものすごく綺麗だった。周りの店員よりひときわ目立って可愛いかった。そんな人が傷心の俺に声をかけてくれたものだから、それはもう恋に落ちるしかなかった。席に座ってしばらくすると、彼女はまた戻ってきて俺の目を見る。


「注文、決まりました?」

「うーん、おすすめとかありますか?」

「あたし、これ好きですよ。お店ではいつもキャラメルラテ頼むんです」


彼女はほんとうに綺麗に笑う。「人気メニューじゃなくて、君の好みなんだ?」って茶化したら、照れながらもっと笑ってくれた。俺も笑った。そうして、こんな幸せな会話を交わしたのはいつ振りだろうと思って、胸が詰まった。胸が詰まるっていうのが実際にあることを初めて知った。彼女がキャラメルラテを運んでくるまでずっと見つめていた。彼女は俺以外にも色んな男と仲良さそうに喋ってた。


「なんで初めて来たって分かったの?」

「常連さんが多いですから。あたし、顔覚えるの得意だし!」

「そっか。俺、最近為崎に引っ越してきたばっかりなんだよね」

「そうなんですか!ちなみに何歳?」

「22だよ」

「同じ!あたしも。嬉しいです」


為崎に来てから初めて知り合った彼女は同じ22歳で、その分気兼ねなく話せる気がした。むしろ運命だとも思えていた。幻滅するほど惚れやすいな。確かにそうなんだけど、この恋は今までとは全然違うのだ。……とか、昔から初恋を上書きしてきた覚えはある。馬鹿だからな。しょうがない。あのマリって子が可愛いのが悪い。


「同い年だし敬語じゃなくていいよ。えっと、キリウちゃん?」

「下の名前、マリだよ」

「マリちゃんね。俺、ショーゴ

「わかった。ショーゴくん、ごゆっくり」


その日、夜になっても夜が明けても彼女の笑顔が脳裏にこびりついて離れなかった。笑顔と名前しか知らない彼女のことを考えてムラムラした。そういうことに自己嫌悪とかはしていない。何度も言うけど彼女が悪い。布団をかぶって無理やり寝たけど、彼女は夢にまで現れた。もうだめだ。追いかけるしかない。そう覚悟して、それから毎日あのカフェに通った。二日目に彼女はちゃんと俺のことを覚えていた。三日目には長話をした。一週間後には、俺が今親に黙って大学を休学してることとか、家を追い出されたこととか、どうでもいいことまで嬉しくなってベラベラと喋った。彼女のことも少しだけ聞いた。大学には行ってないとか、彼氏はいないとか。あぁー、彼氏いないのか。そう言うならそうなんだろうけど、相当男慣れしてるのは見てて分かった。まぁそうだよな。こんな可愛い子を放っておく男なんかいない。放っておけるとしたらそれは馬鹿だ、大バカだ。それに俺は、ライバルとか彼氏とか気にしないタイプの男だ。分かったのは、つまり彼女はフリーで、だから俺は彼女と付き合えるっていうことだ。俺は連日彼女のいるカフェに通い続けた。暇人と思われないように、それっぽい履歴書とかを広げて、バイト探しをしてるフリをしていた。彼女は為崎でやってるバイトのことを色々教えてくれたので、冗談無しで助かった。この恋に区切りがついたら働こうかな。だってさ、彼女が働いてるのに俺が働いてないのはカッコ悪いだろ。俺が映画代とか奢りたいだろ。そう思うと働くことにワクワクしてきた。恋の力はすごい。


「バイト、いいトコ見つかった?」

「んー、もうちょっと考えてる」

「そうだね。ショーゴくん、引っ越したばっかりだもんね。あ、そういえばね、この前近くのレストランで募集してるの見つけたよ!」

「そうなんだ。また見に行ってみる」


この頃には、彼女とはもう完全に打ち解けていた。少なくとも俺はそう思っていた。通りかかるたびに話しかけてくれたり、冗談で笑い合ったりするのが本当に楽しかった。「バイト見つかったら付き合ってくれる?」みたいな危ない種類の冗談も彼女は「考えとくね」と笑い飛ばしてくれた。いや、笑い飛ばしてくれるのがお互い一番いいのは分かってるんだけど、それでも何かグサリとくるものもあった。考えとくね、っていうのは可能性があるってことだよなぁ。でもほとんど冗談なんだよなぁ。毎晩毎晩俺は1人のことで頭がいっぱいだった。


そしてさらに一週間と少しが経った。


小雨が降ってきて、風に乗った水滴がいくつかテラスに座っていた俺を濡らし始めたから、今日は仲良し作戦を切り上げることにした。マリちゃんから聞いたけど、俺の住んでる近くの駅は雨がひどいと冠水することもあるらしい。ていうか、このカフェあたりはぶっちゃけ為崎の隣の街か何かかと思っていた。けどここも為崎らしい。駅の名前は違うけど、さらに3駅くらい先までは為崎って呼ばれてるらしい。とにかく俺の住んでる方の為崎は物騒だし冠水するしマリちゃんがいないし最悪な所だ。ため息を吐きながら席を立つと、彼女が駆け寄ってきた。


ショーゴくん、もう帰るの?」

「うん。雨降ってきたから、強くならないうちに」

「あのね、もうあたしも上がりなんだ。この後暇だよね?一緒に帰ろうよ」

「いいよ。じゃあ待ってる」


急接近ー!!!!


できるだけ落ち着いた声で言ったけど、内心飛び跳ねそうだった。心臓じゃなく、足が。飛び跳ねて喜びたかった。これはヤバいやつだ。マリちゃんと帰る…わずか数週間でそんなところまで近づけたのか。恐ろしい。ちょっと待ってると、彼女は裏口から駆け足で出てきた。白と黒で大人っぽい服装をしていた。髪を下ろしてるの、初めて見た。可愛い……。何度か口からこぼれてしまって、彼女は照れた。可愛いだなんて死ぬほど言われてるだろうに。そんな反応されたら余計に可愛い。俺はこの時点でだいぶ浮ついていて、マリちゃん可愛いってことしか頭に無かった。何度か気の抜けた返事をして、彼女に「ねぇ聞いてる?」と心配された。ついでに俺は傘を持っていなかったから、彼女の傘を持って2人で相合傘をして歩いた。こんなこと高校生の時にもしたことなかった。


「ねぇショーゴくん、帰る前にどこか寄ってく?」

「あ……うん。映画とか?」

「為崎の映画館、遠いからだめ。DVD借りようよ」

「映画館はダメか。俺んちDVD観れないよ?」

「じゃあ、あたしの家で観よっか」


う、うわあ、小悪魔だ。この確信犯的なやりとりからして、彼女は慣れてるんだ。もうこの先のことも分かってるんだ。そういうリードしてくれるの、案外男は好きなんだよ。いいなぁ、マリちゃん。これおうちデートってやつか。デートっていうか、まだ付き合ってないけど。でも時間の問題だなこれは。それにしてもDVDって、この展開定番すぎだろ。途中から内容覚えてないみたいなやつ。あー、俺、今日、帰らないかもな。そうなっちゃうかな?なるよな?うん。俺がレンタル屋の中でふらふらしてると、彼女は迷わずにDVDを持ってきた。「これ、もう映画館で終わっちゃったやつ。観ていい?」なんでもいいですとも。それ、俺ちょうど昔の彼女と見たことあるけど。全然いいです。君と観たいです。レンタル料はもちろん俺が払った。やっすい。映画だったら三千円近くするのにな。家に行けて100円って、世の中のカップルに良心的すぎる。俺はレンタル屋に感謝した。彼女の家へは、電車に乗って俺の住んでる方からより遠ざかるらしい。そういえば、雨はいつの間にか止んでいた。晴れたしどこか行く?と提案されないかヒヤヒヤした。いや、別にどっか行くのもいいんだけど、それをすっ飛ばして一旦ここまで来たのだから今さら引き返すのは辛い。肉体が辛い。申し訳ないがもうそんなことしか考えられなかった。俺は男だ。小悪魔を前に理性の皮を被るのでいっぱいいっぱいすぎる。人の少ない電車で何駅か過ぎて降りた場所は、初めて来る所だった。それはこの先も来る機会なんてなさそうな……。なんていうか、とても静かだった。住宅街で、高い建物が多い。俺の家の近くみたいな落書きはほとんどなかったけど、かといって平和な賑やかさもなかった。ただ無音で、2人だけが歩いていた。実際、2人だけしかこの場所にはいないと錯覚した。


「ここだよー、あたしの家」


彼女が指差した建物はマンションだった。軽く15階建てくらいはあるんじゃないかと思う。見上げながら、言葉を失った。バイトやってるだけにしては、やたら高級そうな建物だ。これ、家賃いくらするんだ。エントランスによくある認証ゲートは無かったけど、この辺自体が異様に厳かな雰囲気だったから、多分安全なんだろうと思う。彼女の部屋の扉には表札が無かった。そういえば、ポストの中も確認してなかったな。どうぞと言われて中へ進むと、やっぱり部屋は広かった。2L?3L?これ、1人じゃ寂しいわ。俺が住んであげるべきだ。そんなつまらないことを考える。


「すげーね。超リッチじゃん。俺の部屋来なくて良かったと思うよ」

「またまたぁ」


いや、ほんとに。これは俺の家に来てたらリビングで「ここが玄関?」って言われる狭さだった。DVDのプレーヤー無くて良かったー!!でもこの広い部屋に何か違和感も感じる。シンプルすぎるのだ。俺の想像では、こう、もっと女の子女の子してる部屋のはずだった。ピンクのカーテンとかぬいぐるみとかある感じの。ただの想像だけど。今目の前にあるのは、白いカーテンにリビングの机とか冷蔵庫、寝室の薄型のテレビとベッドと……これはなんだろう、書斎?紙が積み上がってる机があった。なんだこれは。意外に勉強家なのか?密かに大学に入る夢でもあるのか?彼女は何も言わずに、その寝室のDVDプレーヤーをいじっていた。この部屋に関してなにも言わないってことは、聞かれたくないんだろう。俺も余計なことは詮索しない。


ショーゴくん、これ起動してくれないよ。ごめん。あたし、機械音痴なんだよね」

「俺がやるよ。DVD貸して」

「うん、ありがとう。あたし、髪濡れちゃったしシャワー浴びてくるね」

「うん」


うん……えっ?!


これは何のサインだ?シャワー浴びてくるねって、いやらしすぎる。小悪魔め……。興奮して集中できない。集中できないからか、なんだこのプレーヤー起動しないぞ。おいおい、ていうかこれテレビに繋がってないじゃん。マリちゃんどんだけ機械音痴なんだよ。可愛いよ!DVDは無事に動きそうだから、ベッドの端に座りながら周りを見渡した。目ぼしいものは特にない。ないというか、ホントに何も無い。家具が少ないからか、部屋の音が反響して、シャワーが床に当たる音がここまで聞こえてくる。彼女がシャワーを浴びてきたら、次に俺がシャワーを浴びるべきなのか?それは置いておいて、とりあえずDVDを観るのか?そもそも俺はどのタイミングで付き合おうと言うのか?セックスが先か付き合おうが先かどっちが正しいんだ?俺は気持ちを整理しようとして、よけいにぐるぐるかき混ぜていた。ドライヤーの音が聞こえる。彼女は律儀に髪を乾かしているらしい。きっちりしてるなぁ。俺もシャワー浴びたあと、髪乾かしたほうがいいかなぁ。


『ガチャッ……』


え?

ガチャ?


心臓がひやりとした。紛れもなく玄関が開いた音だ。でも俺達が部屋に入るとき、マリちゃんが鍵をちゃんと閉めたのは覚えてる。しかもいま、鍵を開いたような音も聞こえた。どういうことだ。泥棒なのか?!ピッキング能力のある泥棒か。もしくは可愛い彼女を襲うストーカーか?!俺は撃退しなくちゃならないのか?!焦っていると、彼女がすごい勢いで部屋に入り込んできた。


「ごめん!絶対に静かにしてて!どこか隠れてて!隙ができたらすぐ逃げて!」


マリちゃんTシャツ1枚で下パンツなんだけど。パンツ丸見えなんだけど。そりゃだめでしょーそれは誘ってるよアウトだろ……えっ?


「え…?」


必死そうな彼女が言ってることを、うまく理解できなかった。とりあえず静かに、隠れてて、それで……逃げる?え、なんで俺だけ?マリちゃんは1人で立ち向かう気なのか?泥棒もしくはストーカーに?


疑問だらけのまま、とりあえず俺は言われたとおりベッドの下に隠された。放心状態の俺を放置して、マリちゃんはパンツにTシャツのままで、すぐ向こうの部屋に行ったみたいだ。声が聞こえる。


「雨降ってたの?」

「うん……ていうか、由井、なんで帰ってきてるの?どうしたの?いきなり」

「うん。鶴水がさ、3階から車の上に飛び降りて僕の車ヘコませたからねェ、そのままカーブ切って振り落としてきた」

「それで事務所に帰るのが、こっちに帰ってきたの?」

「うん。寝るから邪魔しないでね。あと浴室の換気扇回してきて」

「う、うん」


マリちゃんは浴室に向かったみたいだった。


????????


全然分からない。意味が分からない。男の低い声がしてて、その声にマリちゃんはやけに親しげで、事務所?3階から?カーブで振り落とした?ぶっ飛んだ内容の会話が俺に理解をさせてくれない。誰だよこの男。普通じゃないことは分かる。冷や汗が止まらない。これはどうやらマジらしい。しかも例の足音がこっちに向かって来る。あー、しかも迷わずこっちの方来てるんですけどマリちゃん俺を1人にしないでーこれヤバイ見つかったらどうしよう逃げられな


「みーつけた」


オギャアアアアアアアアアアアーーーーーーー!!?!?!!!!??!!


実際は声すら、出なかった。男は屈んでこっちを覗き込んでてそれでうつ伏せになってた俺の右目に冷たくて黒いなにかを突き付けてきて俺は身動きしないまま視線だけ動かすとその黒は男の持ってる銃で俺はそのとき本物の銃を初めて見たしなんでこの男が当たり前のようにそれを持ってるのかわからないしそれがまさか俺に突き付けられるなんて今まで生きてきた中でこれっぽっちも可能性として考えてなんかいなかった。ていうか普通考えないだろ。怖すぎて息ができない。全身が震える。瞬きしたら殺される。コイツは正真正銘ヤバイ奴だ。もうだめだ。俺死ぬのか。


「由井ごめんなさい!!」


男の後ろから、走ってくるマリちゃんの声がした。


「あのね、DVD観ようとしてただけだから……なんにもしてないから」

「うん。そう?僕はそんなこと気にしてないよ。ていうか、はは、DVD観て帰らせるのは酷でしょ。家まで呼んでおいてねぇ?」

「ほんとだもん……!」

「ハ、本当じゃなくてもいいさ」


「飛んで火に入る夏の虫」、と男は確かに呟いた。俺の目を真っ直ぐ見ていて、だから俺はその人を殺す目と銃を交互に見た。そいつはよくいる強面の大男とかではなく、薄い水色の髪をした、映画の中の一人みたいな雰囲気で。言うならば、まさに軽薄で目的のためにあっさりと人を殺しそうな。男は笑ってた。笑ってたようで、それは全然笑ってなくて、ただ楽しそうなのは分かる。人は、怒ってるよりも楽しんでるがよっぽど怖いのだと知った。


「お願い、それしまって」

「……」

「悪くないもん、あたし……。由井、ぜんぜん帰ってこなくて……さ、寂しかった」

「はぁ……はいはい」


マリちゃんは泣き出していた。男は素直に銃をしまってこちらを覗き込むのをやめ立ち上がったので、俺はようやく十分に呼吸ができた。「マリ。おいで」泣いてるマリちゃんは男の声に従ってベッドに座ったようだった。呼び捨てかよ。マリちゃん呼びの俺は敵わないってか。そういえば、俺が呼び捨てで呼ぼうとしたとき「恥ずかしいから呼び捨てはやめて」って言われたっけ。そういうことだったのか。この男だけがそういう関係になれるわけだ。俺は何も分かってなかったのだ。そしてベッドの下にいる俺は次に考えた。この後、どうすればいい?


「んん……あっ」


甘い声。が、響く。ベッドが軋んだ。ちょ、えええ、ちょっと待って何これ、俺まだベッドの下なんですけど、始めるの待ってくれませんか?!俺どうすればいいんだよ?!は?!急いでベッドから這い出てとりあえず書斎の下に入り込むともう2人とも俺のことなんて全然見てなくてTシャツをたくし上げられたマリちゃんは男の下であんあん言ってるしさっきまで俺のこと確実に殺そうとしてた人は背中向けてガン無視だし辛い。マリちゃんとそうなるのは俺のはずだったのに。マリちゃんをあんあん言わせるのは俺だったのに。ふざけんな。彼女は脚が細くてきれいでおっぱいも大きかった。俺が触るはずのおっぱいは別の男のものだった。たまに「ゆい、すきぃ」みたいな声が漏れるから耳を塞ぎたかった。男はその間特に何も言わなかった。まるで好きな人のAV出演を見せられてるみたいだった。そんな、きれいで汚いノンフィクションの光景。男のシャツがはだけて見えた首元には、おそらく背中に彫り込まれているであろうイレズミがちらりと見えた。そういえばさっき覗き込まれたときも、片目には傷があったような、なかったような気がする。彼女、ヤバイ男と一緒にいるんじゃないか。そして、一番手を出したらいけない女の子に俺は手を出そうとしていたらしい。未遂だけど。怒りと恐怖に震えたいのに俺の下半身は素直にマリちゃんのカラダに反応してて、やり場のない欲望を抱えて、俺はやっと覚悟を決めて部屋を飛び出した。『バキッ』レンタルしたばかりのDVDのケースを慌てて踏んづけた音が水音に混じって部屋に響いた。2人はそれに全然反応してなかった。まるで、俺なんかもういないみたいに。


残酷だ。残酷すぎる。一目散にマンションから出て、俺がさっきまでいた部屋の方を見上げた。……つまりだ。あの部屋はホントはマリちゃんじゃなくて曇り空みたいな髪の色した怖い男のもので、だからこんな高級そうなマンションだったんだ。……ほら、最初からこの為崎はさんざんな街だった。ならやることは決まっている。明日にでも部屋を売り払って、引っ越さなければならない。だって、ひと夏の恋に強制的に一区切りがついたことだし。ただ、ついでに「あの男」にもし顔でも覚えられていたら、今後生きていくのさえちょっと大変だ。恐怖からなのか失恋からなのか分からない涙が浮かぶから、止めたくて拳を強く握る。それでも脳裏によぎった彼女の笑顔は美しかった。一生思い出したくないのに。忘れたい、忘れろ、忘れろ全部。

 

 

彼女の災難→俺の災難

 

 

 

僕の知ってることはそれだけ

去年に書き上げた、どこかの世界線の現パロのはなし。

高校の友人だった百瀬くんの話です(でも橘なゆ)


---

けだるい暑さに顔をしかめて、うるさい蝉の音に心はざわついた。橘に会うのは久しぶりだった。僕は学生の頃さんざん行きたいと言ってた都会に本当に出て行って、安いアパートで暮らしている。橘は、前に住んでいたところとそんなに変わらない場所で、前と同じような暮らしをしているらしい。同じようなって言っても、僕にはぼんやりとしか想像できなくて、そういえば昔から、あいつのことは知ってるようでよく知らなかったことを思い出す。それはあいつにとっても同じで、僕だって全部を見せてたわけじゃない。月日が経つと、そういう曖昧だった部分が目立つようになる。

真夏の炎天下の昼下がり。待ち合わせしていたコンビニの影で、かろうじて陽射しを避けてやり過ごしていると、ようやく遠くから橘が歩いてきた。遅れてもマイペースで走らない姿を見て、相変わらず橘らしいなと思って、安心しながら息を吐いた。

「百瀬久しぶり。おはよう」

「あー、ほんと久しぶりだな、おはよ。もう昼過ぎだけど」

「遅れてごめん。すぐ俺の家、くる?どこか寄ってく?」

「この近く、何かあるの?」

「何も無いけど」

「なんだよそれ」

また溜息を吐いて、笑った。

他愛のないことで笑えるけれど、思っていたよりも話すことがないことに気づく。橘も僕も、数年経ったにしてはあまりに平凡だったからだ。そりゃそうだ、20歳なんてぜんぜん大人なんかじゃない。

橘の住んでる部屋は比較的新しい8階建のマンションらしく、外見だけでも僕が今住んでいるボロアパートよりは何倍かマシなところだった。橘の部屋は3階のくせに階段を使わないところがこいつらしいなと思った。ちょうど廊下の向かいから、住人らしき女の子がスーパーの袋を持って歩いてくる。橘ってご近所付き合いとかうまくやっていけてんのかな、近くの住人と挨拶とか、……してないだろうな。そう思った僕は、次の瞬間、女の子が嬉しそうに駆け寄って橘に話しかける姿を見て心底驚いた。

「橘くんおはよう!」

「おはよう。ごめん、今日は友達来てるから」

「そうなんだね、知らなかった!初めまして!」

「は、はじめまして……」

愛想の良い笑顔を振りまく、明るそうな、普通の女の子だった。

あ、ああ!あれね!イトコとか、そういう感じか……、なるほど!無理やりそう思い込むことにした。そして胸の奥の疑念がそのまま疑念に終わることを祈る。いや、でも……

「晩ごはん作ろうと思ったけど、じゃあまた今度くるね。さよなら!」

「うん」

あーやっぱりそういう関係だった。

「……あっ、俺今日のうちに帰るし、ぜんぜん気遣わなくても。なんか悪いし」いやなんで俺が気を遣ってるのか分からないけど、とっさにそういう感じの言葉が口を出た。「そうかな?ならまた、夜に来てもいい?」彼女は嬉しそうにまた笑って橘を覗き込んだものの、「……どっちでもいいよ」一番関係のない人かのようなそぶりでさっさと会話を終わらせて、部屋の鍵を開けて中に入っていく。彼女もそれで納得したようで、見ず知らずの僕らはなんとなくの会釈をして別れた。

「ちょ、橘。待てよ、誰あの子?いとこ?」

「うん」

「おい。嘘つけ」

「バレた?」

「まさか、あの顔で年上はないよな?」

「年下だよ」

「へぇ、そっか。へぇ……」

僕はこれ以上を聞くのが怖くなって、やめた。橘ってあの子に友達いるとこ見せたことあるの?お前友達少ないもんな……。ていうかお前同棲してるの?半同棲?付き合ってんの?あの子具体的には何歳?趣味変わった?

「百瀬、あんまり変わってないね」

「うん……そりゃ、変わらないだろフツー。そんな劇的に変わるもんじゃないよな、思ってたより。僕はお前のめちゃくちゃな恋愛話とか聞きたかったのに」

「残念。フツーだよ、すごく」

そう言って笑う橘は、とても普通の人間に見えた。そんなことを言ったら失礼だと冷たい目で見られそうだから言わないけれど、前とは違って見えたんだ。だって、お前が、そんな風に自然に笑うのって、僕はほんの数える程しか記憶にない……仲のよかった僕ですら。嬉しいような、けれど悲しいような気がして、それを伝えるべきか逡巡した。

「なんか、少しだけ嫉妬するよ」

橘は、僕のことを何を言っているんだという感じで「嫉妬?」と繰り返した。

「……バカみたいな話だけどさ。お前は一生、僕らの前でだけ本音で話して笑ってるんだろうなと勝手に思ってたわけ」

「ふうん」

橘はにやりと楽しそうな顔をして、僕の前に氷の入った麦茶のグラスを置く。カランと涼しい音がした。

「高校生の頃はこんな未来予想できなかったな。橘ずっと変わらなそうだったもん。だってお前、友達少ないし、あんまり喋らないし、何かと誤解されそうな感じしてるし」

「そうだね」

機嫌が悪くなってもおかしくない言葉を並べているのに、橘の表情はその逆だった。

「あー……、昔のことばっかごめん。そういえばどうやって出会ったの?ほら、あの子とさ--」

「嫉妬とか、しなくていいよ。百瀬が思ってるより俺はあんたらのこと好きだし。今変わってるとしたら、百瀬たちのおかげだと思ってる」

僕の繕った質問には答えずに、橘はめずらしくよく喋って、その言葉を僕の耳はひとことも逃さず聞き取っていた。そうして、僕はただ向かいに座るこの男のことをぽかんと見つめるだけで、何も言えない。橘もそれきり何も言わずに、こちらを見ないでグラスに手をつける。

……もしかして僕たちは、昔からお前のことを誤解していたのかもしれない。

「お前なぁ、そういうの、もっと早く、僕らがみんないる時に言えよ。ふふ……」

「うわ、何笑ってんの。気持ち悪」

「うるさいなー」

きっと、今の生活を夢みてた頃には気付けなかったことだ。そうだとしたら、僕らは離れてよかった。

「百瀬も晩飯食べていきなよ」

「え、いいの?またあの子来るんだろ」

「うん、気にしないから」

「あの子に昔の話してやろうか?」

「俺も聞きたい。それ」

冷えた麦茶を一気に流し込むと、ペットボトル飲料の、よく知ってる味がした。氷が揺れる。その高い音を聞くと、何回でも昔の夏のことを思い出せる。僕の知ってることはそれだけだけど、それで十分だと思った。

星降る夜になったら

もう何年も前の話だけど、友達がなゆの誕生日を祝うお話を書いてくれたことがあります。

その時は橘なゆとか好きあってるとか考えていなかったけれど、その頃の思い出も含めていままで大切に思えてきたんだなぁと、私も橘も感じているんだなぁというそんな話。

ーーー

ずっと一緒に来たかった場所があると、いつか七夕希が言っていた。

「ここに来ると、思うんだ。帰ってきた!って」

彼女の腰くらい高さのある草をかき分けて、七夕希は丘を歩いた。めずらしく足取りに迷いはないようだった。もう言われなくても分かるくらいに、ここは星が光っている。それはもう、一面に。薄い色のワンピースを揺らしながら振り返らずに先へと進み、そうしてゆるい傾斜の丘の一番上まで登った彼女を、立ち止まって見上げた。

「橘くん、どうしたの?」

その問いかけに、すぐには答えなかった。夏草が揺れて、風の音がする。七夕希はすこし遠い。静かになってから、声を張った。

「見とれてた」

「お星様、きれいでしょう」

相変わらずのずれた返事に、気付かれないようにそっと笑った。思っていることが、全て届くわけじゃないけれど、それでいいと思う。

「空をよく見てて。流れ星がたくさんなんだよ。橘くんは何をお願いする?」

しばらく考えたけど、頭に浮かんだそれは多分、七夕希と同じことだった。だから言わないでおくことにする。

「難しいね。……七夕希は?」

「この先、ずっとこのままいられますようにって!だけど、なゆはね、少しでも大人になれたことが嬉しいんだ。橘くんには追いつけないけど、同じ道を歩いてるみたいで……変わらないけど、変わっていくんだよ。なんて言えばいいんだろう。難しいなぁ」

瞬間、あ、と思って、俺も七夕希も大人になったことに気付く。知らないうちに、彼女の髪は前よりも長くなった。ずっと隣にいるうちに、いつの間にか、月日が重なっていたらしい。増えた料理のレパートリーとか、覚えた星の名前とか、お互いに変わったことが数え切れないほどある。……変わらないものは、なんだったかな。

「……昔、河原で星を見たよね」

俺は何年も前のことを思い出した。

確かあの時は、白鳥と笑涙も一緒だった。その日の朝は雨が降っていたのに、白鳥の言う通り、夕方になると空は晴れて真っ赤になって、夜はきれいに星が見えた。嫌々ついて行ったけれど、忘れかけていた七夕希の誕生日を思い出させてくれた彼らには感謝している。

おめでとうの一言で、あんなに笑顔になった七夕希を、昔の自分はどう思ったんだろう。

「なゆも、覚えてるよ。空がきれいだったね。なにより、橘くんにおめでとうって言ってもらえて、すごく嬉しかったなぁ」

なまぬるい風が強く吹いている。振り返ってこっちを見ている七夕希の髪が、何度も風になびく。暗くてよく分からないけれど、たぶん笑っているんだろう。散らばる星があまりにたくさんで、それを背にする彼女は小さく見えた。夜は深すぎて、星がひとつ落下して消えたってきっと気づくことはない。そう思う。ひかりのようなひとが変わらずそこにいるのなら、なおさら。

「橘くん。また、ここで待ち合わせしようね」

「うん」

「星の逢い引きみたいに、今度はひとりでも、迷わずにたどり着けるよ」

「うん……そんな気がする」

丘を登って彼女の隣まで来ると、夜空はもっと近かった。何万光年も先の宇宙に散りばめられた星たちの、まばゆさにはっとする。七夕希と出会って、何かを見てきれいだ、と思うことは多くなった。それにしたって、こんなに息をするのが難しかったことはない。

掴んだ手が強くにぎり返されて、約束した夜が瞬いた。

傘待ち

 今日は曇っていて浮かない空だなぁと思っていたら、買い物から帰る途中で雨が降ってきた。がまんして小走りで帰るにはちょっと距離が遠いし、いつもは通らない商店街の、シャッターが閉まっているお店の屋根の下で雨宿りをすることにした。昼過ぎだけど商店街に人通りはほとんどなくて、うす暗い感じがする。天気が悪いせいもあると思う。私はぼうっと空を見上げた。重くて暗い冬空だ、きっと雨はなかなか止まない。

 どうしようかなぁとぼんやり考えながら、空を薄く反射する水たまりを見ていた。すると、その水たまりを踏みながら、男の人が歩いてきた。黒いスーツを着ていたから足元は橘くんみたいだったけれど、髪の毛が澄んだ湖みたいな水の色で、もう少し背が大きくて、見覚えのあるひとだった。

「あ」

 思わずこぼれた声は雨の音で聞こえなかったみたいで、男の人は下を向いて猫背で目の前を通り過ぎる。傘をさしていなくて、黒い服が水滴を弾いていたから、きっとこの雨の中しばらく歩いていたんだろうな。これ以上歩いていたら、びしょ濡れになって風邪をひきそう。あの人、細っこいしちょっと元気がなさそうだから、心配だ。

「由井さん!」

すこし大きめの声で名前を呼ぶと、私の前を横切った由井さんはぴたっと立ち止まって振り返る。わたしのこと、ちゃんと覚えてくれていたみたいな顔をして、となりまできてくれた。

「あぁ。七夕希ちゃん、だっけ……寒いね、雨いきなり降ってきたね」

「由井さん、風邪ひいちゃいますよ」

「そうだよね。そっか、橘くん近くに住んでるっけ。迎えに来てもらおう」

 とんとんと話が進んで、由井さんはすぐに携帯を取り出して電話をかけた。私はそれにちょっと慌てる。今日は白鳥くんのおうちに行く予定だから、連絡をするなら白鳥くんかなぁと思っていたからだ。案の定、すぐには橘くんに繋がらないみたいだった。「番号合ってるよね?」と言われて画面を確認したけど、もちろん合っている。「合ってます。でも、橘くん、寝てる気がします」雨が降ってるしなぁ。橘くんのことだから、ベッドに潜り込んでいる気がする。「彼、普段からあんまり電話に出てくれないんだよね」白いため息を吐く由井さんの黒いスマートフォンは、薄くて、たぶん最新のものだ。カバーを付けてないのに、ピカピカで傷一つついていない。そういえばスーツも高級そうだし、きっとお金持ちなんだと思う。そういえば、普段から電話してるってことは、由井さんって橘くんと仲良しなんだ。電話って、何のお話してるんだろう。だんだんぼーっとしていたら、やっと電話が繋がったみたいだ。

「橘くん?やっと出てくれた。今、七夕希ちゃんが困ってるみたいでさ。雨降ってるでしょ。近くの商店街にいるからさ、傘二本持って迎えに来てくれないかなぁ。……ん?一本は僕の分だよ、察しなよ。ほら、早く来ないと風邪ひいちゃう。え、いるよほんとに。はい、七夕希ちゃん」

 由井さんはそういって、携帯を私に向ける。「何か飲みたいもの言ってごらん」と言われて、携帯に向かって「あったかいココア!」って言ってみた。そのあとまた由井さんが喋ろうとしたんだけど、「あれ、切れてるね」と言って、ポケットにケータイをしまった。電話、どのタイミングで切ったのかな。橘くんいつも切るの早いなぁと思って、少し笑った。由井さんは寒そうに息を吸った。

「雨の中歩いてたけど、急いでいたんですか?」

「そうでもないけど。そう見えた?」

「そうでもなければ、雨宿りすると思って。風邪ひいちゃうから」

「よく雨に降られるからね。あまり気にしないのさ」

「うーん、心配だなぁ。由井さん、帰ったらお風呂に入ってあったかくしてくださいね」

「ん、そうだねぇ……」

 ひとごとみたいな返事をしながら、由井さんはポケットからタバコのパッケージを出す。その中の一本を取り出してライターで火をつけた。かすんだ空気の中に煙がまざって、それらしい匂いがした。

「場所、代わろう。そっち風下だから」

「かざしも?」

「煙だよ、煙」

なるほど。煙の流れの話かぁ。由井さんは気遣いのできる人だなぁととても感心した。私の右側にいた由井さんはさっと左に移って息を吐いた。流れる煙はどんどん遠ざかる。タバコ、きっと大人の味がするんだろう。ブラックのコーヒーが飲めないみたいに、私はタバコも吸えない。橘くんはどうなのかな。タバコを吸う姿はあんまり似合わないなと思って、心の中でちょっとだけ笑った。

 由井さんは、お金持ちに見えるし、いい仕事をしていそうな雰囲気だったから、どんなお仕事してるんですか?と聞いたら、「不動産とか、会計……いや、接客かな……」と、自信のなさそうな答えが返ってきた。もしかしたら、企業秘密で詳しくは言えないのかもしれない。そうだったら、すごくかっこいい。ほかにも質問してみたけど、答えはどこか他人のことを喋っているみたいに曖昧で、ますますこの人のことがよく分からなくなった。きっと、苦労も多いんだろうなと思う。

「橘くんとは、どうして知り合ったんですか?」

 この話に関しては、由井さんはできるだけ私に丁寧に説明しようと努力していることが伝わった。思い出すような、考えるような仕草で眉間にしわを寄せて、少しだけ喋ってくれた。

「……どうだったかな。確か、部下が僕に紹介してきたんだっけ。で、彼はウチの部下に比べて冷静だし、起点が効くから、たまに助けてもらったりね。その程度だよ」

 たまに助けを借りたい知人程度だと、関わりを控えめに話していたけれど、それだけでも私には嬉しさがあった。橘くんの話を他の人から聞けるのは、けっこう珍しいことなのだ。彼は、あまり評価を受けるような行動はしないタイプだから。「橘くんは多少人当たりが冷たくてぶっきらぼうに見えるけれど、それを除けば今みたいに、案外気が利くところがあるんだよね。あ、案外は失礼かな」私はうんうんと頷く。由井さんだって賢くて、だからこそ橘くんのことをよく分かって、それでいて信頼してくれているんだと思う。

「ねぇ、君は……」

 由井さんはそこで言葉を止めた。ひとりごとみたいに、消え入りそうな声で呟いたから、私はとっさに返事ができなかった。「……僕にはね。橘くん、一人で生きるのがとても上手に見えるんだ」鈍い宝石みたいな、それでいて蛇みたいにするどい瞳が覗き込む。

 ……ある日彼が、もし君のもとへ来なかったら、きみはどうする?

「私が迎えにいきます!」

 この答えにはぜったいと言っていいくらい自信があったから、しっかり由井さんを見た。すると、少し笑ったような顔を見せて、それから視線を外して、また遠く低い雲をぼうっと見つめた。

「そう。迎えにいく---」

 反芻して、知らない言葉のように呟く由井さんもまた、橘くんと同じように、一人で生きるのが上手なんだろうなと感じた。そうして、この人にも、迎えに行く誰かが必要なんだと思う。あるいは、もうすでにいるのかもしれない。

「君の目には橘くんがどう映ってるのか、……気になるけれど、聞かないでおくよ」

「ちなみに僕は、彼がちょっと怖いな」

 白い息を吐いて、由井さんは、おどけて言う。怖い?確かに。橘くんはそう思われがちだから、私は笑った。でもきっと、いつか思い直してくれるはずだ。

 由井さんが何本目かのタバコを取り出した頃には、雨はずいぶんと小降りになって、雨音も静かになっていた。

 しばらくして迎えにきてくれた橘くんは、水溜りをよけるように歩いてきた。由井さんと同じように黒いスーツを着て、雨だからか、ふてくされたような顔をしている。

「橘くん。わざわざありがとう!」

「うん。雨、もう止んできたね。はい、これ」

 片手に缶を2つ持っていて、そのうちのひとつを私に手渡してくれた。さっきの電話、ちゃんとココアって言ったところまでは聞いていたんだなぁ。もう一度ありがとうと言う。橘くんはもう一本の方を由井さんに向けて軽く投げて、由井さんは少し反応が遅れたけど、それをうまくキャッチした。

「コーヒー……僕にもくれるの。どうも」

「あと傘。返さなくていいから」

「助かるよ」

 由井さんは私と橘くんを交互に見るようにして、よくできた、控えめな笑顔をつくる。私は思わず、由井さんってこういう顔もできるんだ!とびっくりした。

「じゃ、僕帰ろうかな」

「気をつけてください。風邪、ひかないように」

 念を押して言うと、どこかぎこちない感じで手をひらひら振ってくれた。橘くんは始終ケータイをさわっていて、あまり興味がない感じだったのが、すこし由井さんに申し訳ないなと思う。

傘をさして猫背で歩いていく由井さんを見送って、橘くんが「帰ろう」と言ったところで思い出す。

「なゆ、どこに帰ろうか?」

「どこって、うちでしょ」

「あのね、今日白鳥くんのおうちに行こうと思ってて…」

「さっきあいつにメールした。うちに来てって」

「そうなんだ!」

 橘くん、ごめんね、ありがとうと言う。そうすると「七夕希たちがいる方が好きだから、いいよ」と君は言った。私はその言葉にとてもとても嬉しくなったので、何も言えなくなった。だって、こんな幸せなことがあるだろうか。「私たち」は橘くんに好かれているよ。一人で生きるのが上手だけど、君はいつも迎えにきてくれるし、私も迎えにいくんだ。いつか、たまには嫌な顔をしたって、懲りずにそうすると思う。来ないでって言われても、それはゆずれないよ。わがままだってゆるしてね。