彼女は水底を見た

初詣に行く橘なゆと由井・鶴水・マリ(登場人物が多い)

なゆと話すと少し冷たさがほどけるけれどやっぱり底が見えない由井を書きたかった話

 

 

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1月1日、年の初めの正午を過ぎたころ。

家からすこし遠い、大きな神社に初詣に行きたいと言った七夕希は、寒くないようにとしっかり着込んだ姿で橘の手を引く。境内は華やかな服装を装う人々で大いに賑わっていた。

「思ってたよりも人がたくさんだね」

「うん」

「もう少し早く行くべきだったかな。でも、今朝は橘くんが……」

夕希はにやりと橘を見る。そもそも、今日は初日の出を見てから、そのまま神社へ行くつもりだったのだ。

……けれど、視線を向けられた彼は朝になって「やっぱり行かない、さむい、眠い」と毛布をかぶって起き上がらず、結局七夕希と白鳥と笑涙で昇る朝日を見ることになった。

今朝のことをちらつかせたものの、七夕希は大して気にしていない。マイペースなのは彼の個性であり、好きなところだ。が、橘自身はもっと気にしていなさそうに「朝は寒かったね……」と他人事のように呟いた。

空はぼんやりと曇り灰色。昼下りの神社は人が絶え間なく行き来し、拝殿の鈴の前には行列ができていた。二人もその列に並んで参拝の順番を待つ。

 

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二人はやっと賽銭箱の前までついて、用意していたお賽銭を投げて鈴を鳴らし、拝殿に手を合わせた。

参拝を終えて来た道を戻ろうとしたとき、七夕希がふと立ち止まって人混みをじっと見る。

「あれ?橘くん、ちょっと待って……あ!」

「え、ちょ、なゆ……」

何か見つけたのか、七夕希は橘を置き去りにして駆けていく。橘はすこし遅れてその後を追うけれど、彼女の先にいたのがよく知る人物だと分かって立ち止まってしまう。

「由井さーん!」

「……ん?あれ、」

「ウソ!?なゆちゃんだー!偶然だね、明けましておめでとう!」

突然の事に戸惑う由井をさえぎって、マリが笑顔で挨拶する。その奥には、背の高い鶴水が何も言わずに七夕希をじっと見ていた。

「マリちゃん!鶴水さんも!偶然見つけたから、走って来ちゃいました……明けましておめでとうございます!」

「びっくりしたよ。明けましておめでとう、七夕希ちゃん。……ところで、また迷子?」

「えっ?あれ?橘くんもいるんです!」

中途半端に距離を保って立ち止まっていた橘は、七夕希に手招きされて渋々その集まりの中に近づいた。

「……今年もよろしく」

橘は小さな声で一応の挨拶をした。由井はその態度に触れもせず、機嫌が良さそうだった。

「年明け早々君たちに会うなんてね。こちらこそ宜しく」

「なゆちゃんと橘くんが一緒にいるの初めて見たかも?初詣って、橘くんカワイイとこあるじゃん。今年も仲良くね!」

「……余計な世話なんだけど」

冗談を言うマリに橘は不機嫌そうに目を逸らしてしまう。

「マリちゃんと由井さん、着物きれいです!似合ってます!」

二人は初詣らしく、和装の佇まいだった。マリいわく、仕事ばかりな由井は意外にも、こうした行事は重んじるタイプらしい。

「あの、鶴水さんは……寒くないですか?」

鶴水の服装はと言うと、着物に羽織を重ねている二人とは対照的に、マフラーのひとつも巻いていない。いつものワインレッドのシャツの上にライダースを羽織っているだけだった。

「あ?なんでだよ、寒くねぇよ」

鶴水は相変わらずぶっきらぼうだった。が、七夕希はその返答でほんとうに鶴水が寒くないのだと分かって安心した。七夕希は以前にとある事情で彼らのいる街から家まで鶴水にバイクで送ってもらったことがあり、それ以来鶴水のことを『なんだかんだ優しい、橘くんと同じ部類の存在』だと思っている。

「鶴水ね……。季節感というか、浮いてるでしょ」

由井は肩をすくめて笑ってみせる。

橘は鶴水に聞こえない程度の声で「やば、ナントカは風邪ひかないってやつじゃん……本物だ……」と小さく由井と話しながら、その強靭さがツボに入ったらしく肩を震わせていた。

「鶴水さん、強くてすごい!そういえばなゆがバイクに乗せてもらったとき、寒すぎて上着貸してもらったっけ……」

「いや、アレはさすがに俺も寒かった」

「えっ!ご、ごめんなさい!あの時はほんとうに……」

真顔で答える鶴水に七夕希は慌てて謝った。あのときは寒そうなそぶりを見せていなかったが、よく考えれば上着を借りた自分に心配をかけさせないためだったのかもしれない。

「そ…そうだ!あの、せっかくなので!みんなでおみくじ引きに行きませんか?」

「うん?いいね、行こうか」

夕希の提案に、由井は子供をあやすような柔らかい声色で応える。

「よしっ、大吉引きにいこう!ほら悠も橘くんも!」

マリに呼ばれて橘はその隣に並んだが、鶴水は面倒な顔をしながら急ぐ事なく無言で後ろをついて行った。

 

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神社のおみくじは、古い棚に小さな引き出しがざっと100は並んでいる。傍にある大きな筒を振り、出てきた一本の棒に書かれた番号の引き出しからみくじ紙を取り出して運勢を占う仕組みだった。

「由井さん、さいしょに引きますか?」

由井はふむ、といった顔をして「僕はきっと、最後がいいな」と七夕希に言う。わかりました、と七夕希が筒を一生懸命振った後は、橘、マリ、鶴水、由井の順番で回していき、それぞれ違う引き出しからみくじ紙を取り出した。

「みてみて!なゆ大吉だったよ!」

夕希はいちばんに橘に紙を見せて、目をきらきらさせた。

「俺も」

「二人ともいいなぁ!あたしは中吉だったよ」

鶴水は引いた紙に興味がないようで、ろくに内容も見ずくしゃりとポケットにそれをしまいこんだ。それを見てマリが呆れながら無理やりポケットから取り出して、大きな声で内容を読んでみせた。

「えーと、末小吉……待ち人案ずるな、待てだってさ!あはは」

それで、という顔で七夕希が由井を見ると、由井はごく自然な表情で、目を閉じて息を吐いた。

「僕ね。実は、これしか引いたことがないのさ」

そう言われて、七夕希『凶』と書かれた紙をひらりと渡された。すると、由井の代わりにショックを受けたかのような顔でその紙を見ながら、そんなぁ……と悲しそうな声を上げる。

「で、でも!内容を見ると意外に良いことが書かれてたりして……?」

願望、叶いにくいでしょう。病気、長引くでしょう。失物、戻らないでしょう。待ち人、現れないでしょう。……真剣に紙の隅から隅まで読む時間をおいて、よけいに顔を曇らせてしまう七夕希。後ろから橘もそれをじっと覗き込み、それから「いつも凶なの?」と笑った。

「すごいね、むしろ才能じゃん」

「ごめんなさい……なゆ軽率におみくじとか言っちゃって……由井さんに残念な思いを……」

「いやいや、毎回のことだし気にしてないからさ。君は神様じゃないんだし、ほら。正直オチにしては面白いかなと思って賭けたんだ」

だからある意味『当たり』なのさ、と由井は笑う。

「由井もよかったね、今年は由井の代わりになゆちゃんがこんなに悲しんでくれて」

「予想外に大きく受け止められて、なんだか悪いことした気分だよ」

勝手に責任の一端を背負った気持ちになった七夕希は、せっせと由井のおみくじを細く折る。びっしりと木にくくられたそれらのうち、橘に手伝ってもらい、より高いところにくくりつけた。

由井はされるがままで、木というより紙たちの拠り所になってしまった何かをすこし遠くからぼうっと見ていた。七夕希は駆け寄って声をかける。

「あの、由井さん。来年も一緒におみくじ引きましょう!」

「……え?」

由井にはその言葉が意外だったらしく、思わず聞き返した。

だって、今までがそうだったように来年も同じ結果で、それはきっと面白くはないだろうから。

「来年はきっと、いいおみくじが引けると思うんです。も、もしだめだったらその次も……」

「……はは、ありがとう」

否定も肯定もせず、ただ由井は笑った。

空はいっそう曇っていて、冷たく雪が降り始めていた。

 

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ほどなくして七夕希、橘と由井たちは別れの挨拶をした。2人になって、橘はふと思いついたように問いかけた。

「七夕希って、由井のことどう思う?」

夕希はきょとんとして、うーん……と難しい顔をして考え込む。

「すごく年上なのに、なゆが言うのも変だけど……放っておけないって思う」

「え、そんな風に見えてたの」

その答えに橘は苦笑いした。彼女は至って真剣な表情。ふた回りほど歳の離れている七夕希に心配されているだなんて、由井は想像しているだろうか。

「おみくじの時みたいに運が悪いのって……きっと神様が、誰かそばにいてあげてって言ってるんだと思うんだ」

それを聞いて、七夕希が彼に向ける感情が、自分や白鳥たちへのそれとは違う種類のものなのだと知る。神様は、おそらく一人で生きられる由井に、それでも必要な誰かを突き付けている。確かに、そうかもしれない。が、少なくとも、その存在は俺たちではなり得ないのだろう。あくまで隣人。七夕希はそれを無自覚に感じ取っていた。

「そっか。なんとなく分かったよ。あいつ、なぜか七夕希の前ではちょっと優しいんだよね」

「由井さん、いつもはあんな感じじゃないの?」

「正直、違うかな。全然違う。いつも何考えてるか分かんないし、怖いし」

「それ、由井さんもおんなじこと言ってたよ!ほら、前になゆと由井さんが雨宿りしてて、橘くんが傘を持ってきてくれた時。橘くんのことちょっと怖いってさ、ふふ。お互い誤解してるのかも!」

「うん……そうかもね」

彼女にはそう見えたとしても、当然、決して彼は"そういう人"ではないだろう。優しい、とはかけ離れすぎている。冷酷で隙がなくて、明るい世界で生きられないような人間だ。彼の仕事は言うなれば何処かの誰かを傷つけているものだし、ましてや自分がそれを手助けしていることを七夕希に言えるはずもない。ただ、そんな由井から怖いと思われていることは意外だった。

けれど、七夕希が言う『お互いの誤解』は解かないままでいいか、と橘は思った。

「あ、橘くん!ひとつ思いついたんだけど---」

 

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夕希たちと別れてから、鶴水は苛立ちを隠せないまま口を開いた。

「……俺、分からないんすよ。由井サンがあんなに入れ込む理由が」

あんなに、とは七夕希に接する態度のことだ。鶴水は付け加える。

「その理由が橘にあるとして。アイツにそんな媚び売る必要あるんすかね」

「さあ。どうだろうね……ひとつ言えるのは、残念だけど、今の仕事はお前一人じゃ足りないのさ」

突き付けられたのは役不足。普段ならともかく今由井の機嫌が損なわれることはなかったが、代わりに鶴水の頭の中ではふつふつと怒りがこみ上げる。視線を向ければ自分の何が不満なのか分からないと言わんばかりのしかめ面。たとえばこれ以上その怒りをぶつければ、返り討ちに遭うのは鶴水自身だというのに。それを想像できない浅慮な彼に対して、そういうところだ、と由井は胸中で笑った。

状況はどう転ぶか。まあ、今日くらいはその不満を受け止めてやろうかと思い黙っていると、今日二回目の呼び止める声が聞こえた。

「由井さーん!」

よく通る透き通った明るい声。振り向くと、呼び止めた彼女は大きく手を振った。辺りには橘の姿はない。一人で追いかけてきたようだ。

「二人とも、先に行ってて」

恐らくそう長い用事ではないだろう。これ以上隣にいる男を不機嫌にさせても面倒だと思い、由井は二人に車に乗っているよう告げた。でも……と不満そうなマリの腕を引いて、鶴水は駐車場の方へと向かって行った。

走ってきた七夕希が由井に追いつくと、引き止めてごめんなさいと言って、ポケットから取り出した小さな白い包みを渡した。

「これ、由井さんに渡したくて!さっき神社のお守りを見て、悪いことから守ってくれますようにって……」

「僕にくれるの?なんだか悪いね」

「そんな、全然……って、ほんとはなゆ、お財布忘れちゃって、買うために橘くんがお金を出してくれたんですけど!あの、一つしかないけど、マリちゃんと鶴水さんの分も守ってくれると思います!」

真剣に説明するさまが面白かったのか、あはは、と由井は小さく笑った。おそらく彼は、今日初めて本心で笑ったのだと七夕希は思った。そうして、由井からしたら些細であろうことが気にかかっている自分がなんだか恥ずかしくなる。

「じゃあ……」と早々に別れを告げようとした時、屈んで同じ目線になった由井と視線がぶつかった。意志を持った深いブルーグレーの瞳。その一瞬、心の奥を掴まれる。

「ありがとう。こんなにしてくれて」

夕希はその時確かに目を合わせたけれど、自分の中に渦巻く感情に揺れて何も返せなかった。だって、なんで、彼は笑ったのに私はせつないんだろう。目の前にいるのに、彼は何も映っていないような顔をするんだろう。

 

……それは澱みがかった穏やかな湖のその水底にひとり潜っていくような感覚で、きっと橘くんも、この深くて鋭い瞳のいちばん奥が見えなかったんだろうなあ、とぼんやり思った。


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些細なことのはずなのに、胸がざわつく。鶴水は思い出していた。

そういえば、映画で観たのだ。マリが観ようとうるさいから付き合ってやった、ところどころしか覚えていない、もうタイトルも忘れてしまった映画。さっきまで暴虐のかぎりを尽くしていたマフィアが、なんの気まぐれか子どもを救ってやった。確か、その役者の見せ場だった気がする。わずかな善意を見せたあと、彼はあっけなく死んでしまった。「優しいところもあったのに」と観客の同情を誘うシナリオだったのだろう。何をしたって所詮運命は決まっているという裏付けのよう。それどころか、ひとたび弱みを見せたあの行動が招いた結末のようで、それが嫌だった。

短い回想を終えた頃。車で待機していた鶴水とマリに「お待たせ」と言いながら、由井は助手席に乗り込んだ。

座るなり、先ほど七夕希にもらった小さな黄色のお守りをポケットから取り出して無言で車のミラーにくくりつけた。それは小さい割に、黒く寂しい車内に不釣り合いと言わんばかりに存在感を放って揺れる。黙ってとなりで見ていた鶴水は動揺して思わず口を開いた。

「な……、何すか、これ」

「お守り。七夕希ちゃんがくれたんだ」

「わあ、なゆちゃんに?かわいい」

「もう分かんねぇ由井サンの事が」

「ハハ、冷たいこと言うなよ」

好きにしてください、と言わんばかりのため息をついてから、それきり黙ってエンジンをかけた。

ひそかにまた思い返してしまう。自分には一度も向けられたことのない表情をころころと『彼女』に見せた、まるで別人のような由井。

ふと考えると、由井の周りにおいて『彼女』は異質なのかもしれない。後部座席から雪が降るさまを見つめているマリの特別な感情とは別の、分け隔てなく平等に配られる心。感情の乏しい自分がそれでも例えるとすれば、つたない祈りのような。……それに触れたら、由井は案外鏡のように笑っただけのこと。

横目で由井を見ると、もう俯いて目を閉じていた。大丈夫だ、彼が起きたらきっといつも通り、瞳に冷たい色を浮かべているのだろう。どうにも居心地が悪くてかなわなかった胸の内を洗い流したくて、車内に置きざりにしていた缶コーヒーを飲み干した。痛みにも似た冷たさはすぐに身体の底まで沁みわたって、鶴水はやっと安堵した。