僕の知ってることはそれだけ

去年に書き上げた、どこかの世界線の現パロのはなし。

高校の友人だった百瀬くんの話です(でも橘なゆ)


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けだるい暑さに顔をしかめて、うるさい蝉の音に心はざわついた。橘に会うのは久しぶりだった。僕は学生の頃さんざん行きたいと言ってた都会に本当に出て行って、安いアパートで暮らしている。橘は、前に住んでいたところとそんなに変わらない場所で、前と同じような暮らしをしているらしい。同じようなって言っても、僕にはぼんやりとしか想像できなくて、そういえば昔から、あいつのことは知ってるようでよく知らなかったことを思い出す。それはあいつにとっても同じで、僕だって全部を見せてたわけじゃない。月日が経つと、そういう曖昧だった部分が目立つようになる。

真夏の炎天下の昼下がり。待ち合わせしていたコンビニの影で、かろうじて陽射しを避けてやり過ごしていると、ようやく遠くから橘が歩いてきた。遅れてもマイペースで走らない姿を見て、相変わらず橘らしいなと思って、安心しながら息を吐いた。

「百瀬久しぶり。おはよう」

「あー、ほんと久しぶりだな、おはよ。もう昼過ぎだけど」

「遅れてごめん。すぐ俺の家、くる?どこか寄ってく?」

「この近く、何かあるの?」

「何も無いけど」

「なんだよそれ」

また溜息を吐いて、笑った。

他愛のないことで笑えるけれど、思っていたよりも話すことがないことに気づく。橘も僕も、数年経ったにしてはあまりに平凡だったからだ。そりゃそうだ、20歳なんてぜんぜん大人なんかじゃない。

橘の住んでる部屋は比較的新しい8階建のマンションらしく、外見だけでも僕が今住んでいるボロアパートよりは何倍かマシなところだった。橘の部屋は3階のくせに階段を使わないところがこいつらしいなと思った。ちょうど廊下の向かいから、住人らしき女の子がスーパーの袋を持って歩いてくる。橘ってご近所付き合いとかうまくやっていけてんのかな、近くの住人と挨拶とか、……してないだろうな。そう思った僕は、次の瞬間、女の子が嬉しそうに駆け寄って橘に話しかける姿を見て心底驚いた。

「橘くんおはよう!」

「おはよう。ごめん、今日は友達来てるから」

「そうなんだね、知らなかった!初めまして!」

「は、はじめまして……」

愛想の良い笑顔を振りまく、明るそうな、普通の女の子だった。

あ、ああ!あれね!イトコとか、そういう感じか……、なるほど!無理やりそう思い込むことにした。そして胸の奥の疑念がそのまま疑念に終わることを祈る。いや、でも……

「晩ごはん作ろうと思ったけど、じゃあまた今度くるね。さよなら!」

「うん」

あーやっぱりそういう関係だった。

「……あっ、俺今日のうちに帰るし、ぜんぜん気遣わなくても。なんか悪いし」いやなんで俺が気を遣ってるのか分からないけど、とっさにそういう感じの言葉が口を出た。「そうかな?ならまた、夜に来てもいい?」彼女は嬉しそうにまた笑って橘を覗き込んだものの、「……どっちでもいいよ」一番関係のない人かのようなそぶりでさっさと会話を終わらせて、部屋の鍵を開けて中に入っていく。彼女もそれで納得したようで、見ず知らずの僕らはなんとなくの会釈をして別れた。

「ちょ、橘。待てよ、誰あの子?いとこ?」

「うん」

「おい。嘘つけ」

「バレた?」

「まさか、あの顔で年上はないよな?」

「年下だよ」

「へぇ、そっか。へぇ……」

僕はこれ以上を聞くのが怖くなって、やめた。橘ってあの子に友達いるとこ見せたことあるの?お前友達少ないもんな……。ていうかお前同棲してるの?半同棲?付き合ってんの?あの子具体的には何歳?趣味変わった?

「百瀬、あんまり変わってないね」

「うん……そりゃ、変わらないだろフツー。そんな劇的に変わるもんじゃないよな、思ってたより。僕はお前のめちゃくちゃな恋愛話とか聞きたかったのに」

「残念。フツーだよ、すごく」

そう言って笑う橘は、とても普通の人間に見えた。そんなことを言ったら失礼だと冷たい目で見られそうだから言わないけれど、前とは違って見えたんだ。だって、お前が、そんな風に自然に笑うのって、僕はほんの数える程しか記憶にない……仲のよかった僕ですら。嬉しいような、けれど悲しいような気がして、それを伝えるべきか逡巡した。

「なんか、少しだけ嫉妬するよ」

橘は、僕のことを何を言っているんだという感じで「嫉妬?」と繰り返した。

「……バカみたいな話だけどさ。お前は一生、僕らの前でだけ本音で話して笑ってるんだろうなと勝手に思ってたわけ」

「ふうん」

橘はにやりと楽しそうな顔をして、僕の前に氷の入った麦茶のグラスを置く。カランと涼しい音がした。

「高校生の頃はこんな未来予想できなかったな。橘ずっと変わらなそうだったもん。だってお前、友達少ないし、あんまり喋らないし、何かと誤解されそうな感じしてるし」

「そうだね」

機嫌が悪くなってもおかしくない言葉を並べているのに、橘の表情はその逆だった。

「あー……、昔のことばっかごめん。そういえばどうやって出会ったの?ほら、あの子とさ--」

「嫉妬とか、しなくていいよ。百瀬が思ってるより俺はあんたらのこと好きだし。今変わってるとしたら、百瀬たちのおかげだと思ってる」

僕の繕った質問には答えずに、橘はめずらしくよく喋って、その言葉を僕の耳はひとことも逃さず聞き取っていた。そうして、僕はただ向かいに座るこの男のことをぽかんと見つめるだけで、何も言えない。橘もそれきり何も言わずに、こちらを見ないでグラスに手をつける。

……もしかして僕たちは、昔からお前のことを誤解していたのかもしれない。

「お前なぁ、そういうの、もっと早く、僕らがみんないる時に言えよ。ふふ……」

「うわ、何笑ってんの。気持ち悪」

「うるさいなー」

きっと、今の生活を夢みてた頃には気付けなかったことだ。そうだとしたら、僕らは離れてよかった。

「百瀬も晩飯食べていきなよ」

「え、いいの?またあの子来るんだろ」

「うん、気にしないから」

「あの子に昔の話してやろうか?」

「俺も聞きたい。それ」

冷えた麦茶を一気に流し込むと、ペットボトル飲料の、よく知ってる味がした。氷が揺れる。その高い音を聞くと、何回でも昔の夏のことを思い出せる。僕の知ってることはそれだけだけど、それで十分だと思った。