彼女の災難→俺の災難

大昔の話 由マリ(モブ男視点)です※気持ち少しだけえっちです

私は結構このお話がお気に入りなので、マリちゃんともうすぐ付き合えそうな男の子になった気持ちで読んでみてください

 

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俺はつい最近この"為崎"に引っ越してきた。一駅向こうの街より家賃が安いからっていう至極簡単な理由でこの街に越してきた。為崎は田舎ってわけでもなく、むしろ賑やかだからこの家賃の安さは物件自体に問題があると思ったんだ。不動産屋は「何もないですよォ」とかうすっぺらい笑みを浮かべながら言ってたけど、あいつは正直うさんくさかった。キツネみたいな感じがした。けど条件のいい為崎の物件をいくつも並べて、それがぜんぶ格安だったから、考えるのをやめたのだ。俺はちょっと馬鹿だからな。

 

この街に来てから、人と話すことはほとんど無くなった。知り合いは1人もいない。コンビニのレジで「袋いいです」「あ、スプーン付けてください」とか言うくらいだ。店員はとてつもなく愛想が悪かったしボソボソ呟いてるし、会話のキャッチボールとかいうやつは全く無かった。ボールの壁投げだ。ちなみに俺が引っ越した理由は、親に追い出されたからだ。「しょーくんは一日中家にいてバイトしないつもり?!しょーくんそういえば大学はどうしたの?!しょーくんはどこに就職するつもりなの?!いつまでもこの家に住んでいられないのよ、出て行ってもらおうかしら!」まぁ、そんなことを顔合わせる度に叫ばれてたから、俺が自分で出て行ったっていうのもある。家から出て行った今、律儀に俺の口座に金を振り込むうちの母親にはありがたいと思うけど、そんなんだから俺は働かない。でもその金が本当に家賃と光熱費と食費でほとんど消えてしまうから、そろそろバイトを探さないといけないとは思ってる。思ってるだけで何もしてないけど。だってアレだろ、まずは街のこととかよく知ってからじゃないとさ、なんかアレじゃん。


為崎について分かったのは、とにかく物騒なことくらいだ。俺が前住んでた所は治安が良くて住人も温厚で、ていうかジジイババアが多かったから尚更だ。物件の下見に来た時は全く周りを見てなかったから気づかなかったけど、影のかかった壁にはありえないほどの落書きがある。かと思えばまっさらな建物もある。この差はなんなんだ?それに、やたら高級そうな車とか。これは夜によく見かける。あと、全体的に車の走行スピードがおかしい。もう明らかに規制速度の二倍くらいで走ってる。普通に信号無視とかしてるから、この短期間で俺は三度くらい轢かれかけた。ウィンカーも出さないから余計にだめだ。ここは老人が住めば一週間後には死んでる街だ。俺は一応普通免許を持ってるから分かるけど、こんな街で車なんか乗れない。まぁペーパーだし免許は親の金で取ったんだけど。夜になると賑やかになる地区もあって、この前そこをふらふら歩いてたら、どう見てもマフィアだろみたいな大男と目が合って死ぬかと思った。店の前にいる男や女は気にせずそいつを勧誘してた。こいつらは頭が狂ってる。関わるとそのうち死ぬやつだ。俺の本能がそう言ってた。


そんな物騒な為崎で、唯一、俺の癒しがあった。幸い俺の最寄りから一駅離れさえすれば比較的平和な区画もあって、洒落た建物が建ち並んでいたのだ。そこを見つけたとき、あぁ楽園だと素直に思った。客層も学生とかサラリーマンとかOLとか、どこにいたんだよって人種がここに集結していたのだ。なるほどここは安全なのだ。すぐに分かった。普通の人は他の地区には寄り付かないんだ。あいにく俺のアパートは危ない場所のど真ん中だったわけだ。不動産屋のキツネは心の中で笑ってたわけだ。俺は諦めてから、毎日ここで過ごそうと思った。そうして為崎の楽園を見つけてから、俺はとあるカフェに通い詰めることになった。そこは新しい造りの店で、木造で落ち着いた雰囲気の広いテラスがあって、いつもだいたい若者で賑わっている。店員は白いシャツに黒いエプロンを付けていて、可愛い子が多かった。最近はカウンターで注文してから席を取る所が多いけど、その店は小さなテーブルに座ってると注文を聞きに来てくれる。初めてそこに来たとき、店員の女の子が俺に話しかけてきたのだ。


「初めてですか?あそこ、空いてるからどうぞ。あとで注文聞きにきますね!」


花のような笑顔だった。


薄いムラサキみたいな、あんまり見かけない髪の色で、ひとつにまとめられていて、それがサラサラ揺れる。顔が、ものすごく綺麗だった。周りの店員よりひときわ目立って可愛いかった。そんな人が傷心の俺に声をかけてくれたものだから、それはもう恋に落ちるしかなかった。席に座ってしばらくすると、彼女はまた戻ってきて俺の目を見る。


「注文、決まりました?」

「うーん、おすすめとかありますか?」

「あたし、これ好きですよ。お店ではいつもキャラメルラテ頼むんです」


彼女はほんとうに綺麗に笑う。「人気メニューじゃなくて、君の好みなんだ?」って茶化したら、照れながらもっと笑ってくれた。俺も笑った。そうして、こんな幸せな会話を交わしたのはいつ振りだろうと思って、胸が詰まった。胸が詰まるっていうのが実際にあることを初めて知った。彼女がキャラメルラテを運んでくるまでずっと見つめていた。彼女は俺以外にも色んな男と仲良さそうに喋ってた。


「なんで初めて来たって分かったの?」

「常連さんが多いですから。あたし、顔覚えるの得意だし!」

「そっか。俺、最近為崎に引っ越してきたばっかりなんだよね」

「そうなんですか!ちなみに何歳?」

「22だよ」

「同じ!あたしも。嬉しいです」


為崎に来てから初めて知り合った彼女は同じ22歳で、その分気兼ねなく話せる気がした。むしろ運命だとも思えていた。幻滅するほど惚れやすいな。確かにそうなんだけど、この恋は今までとは全然違うのだ。……とか、昔から初恋を上書きしてきた覚えはある。馬鹿だからな。しょうがない。あのマリって子が可愛いのが悪い。


「同い年だし敬語じゃなくていいよ。えっと、キリウちゃん?」

「下の名前、マリだよ」

「マリちゃんね。俺、ショーゴ

「わかった。ショーゴくん、ごゆっくり」


その日、夜になっても夜が明けても彼女の笑顔が脳裏にこびりついて離れなかった。笑顔と名前しか知らない彼女のことを考えてムラムラした。そういうことに自己嫌悪とかはしていない。何度も言うけど彼女が悪い。布団をかぶって無理やり寝たけど、彼女は夢にまで現れた。もうだめだ。追いかけるしかない。そう覚悟して、それから毎日あのカフェに通った。二日目に彼女はちゃんと俺のことを覚えていた。三日目には長話をした。一週間後には、俺が今親に黙って大学を休学してることとか、家を追い出されたこととか、どうでもいいことまで嬉しくなってベラベラと喋った。彼女のことも少しだけ聞いた。大学には行ってないとか、彼氏はいないとか。あぁー、彼氏いないのか。そう言うならそうなんだろうけど、相当男慣れしてるのは見てて分かった。まぁそうだよな。こんな可愛い子を放っておく男なんかいない。放っておけるとしたらそれは馬鹿だ、大バカだ。それに俺は、ライバルとか彼氏とか気にしないタイプの男だ。分かったのは、つまり彼女はフリーで、だから俺は彼女と付き合えるっていうことだ。俺は連日彼女のいるカフェに通い続けた。暇人と思われないように、それっぽい履歴書とかを広げて、バイト探しをしてるフリをしていた。彼女は為崎でやってるバイトのことを色々教えてくれたので、冗談無しで助かった。この恋に区切りがついたら働こうかな。だってさ、彼女が働いてるのに俺が働いてないのはカッコ悪いだろ。俺が映画代とか奢りたいだろ。そう思うと働くことにワクワクしてきた。恋の力はすごい。


「バイト、いいトコ見つかった?」

「んー、もうちょっと考えてる」

「そうだね。ショーゴくん、引っ越したばっかりだもんね。あ、そういえばね、この前近くのレストランで募集してるの見つけたよ!」

「そうなんだ。また見に行ってみる」


この頃には、彼女とはもう完全に打ち解けていた。少なくとも俺はそう思っていた。通りかかるたびに話しかけてくれたり、冗談で笑い合ったりするのが本当に楽しかった。「バイト見つかったら付き合ってくれる?」みたいな危ない種類の冗談も彼女は「考えとくね」と笑い飛ばしてくれた。いや、笑い飛ばしてくれるのがお互い一番いいのは分かってるんだけど、それでも何かグサリとくるものもあった。考えとくね、っていうのは可能性があるってことだよなぁ。でもほとんど冗談なんだよなぁ。毎晩毎晩俺は1人のことで頭がいっぱいだった。


そしてさらに一週間と少しが経った。


小雨が降ってきて、風に乗った水滴がいくつかテラスに座っていた俺を濡らし始めたから、今日は仲良し作戦を切り上げることにした。マリちゃんから聞いたけど、俺の住んでる近くの駅は雨がひどいと冠水することもあるらしい。ていうか、このカフェあたりはぶっちゃけ為崎の隣の街か何かかと思っていた。けどここも為崎らしい。駅の名前は違うけど、さらに3駅くらい先までは為崎って呼ばれてるらしい。とにかく俺の住んでる方の為崎は物騒だし冠水するしマリちゃんがいないし最悪な所だ。ため息を吐きながら席を立つと、彼女が駆け寄ってきた。


ショーゴくん、もう帰るの?」

「うん。雨降ってきたから、強くならないうちに」

「あのね、もうあたしも上がりなんだ。この後暇だよね?一緒に帰ろうよ」

「いいよ。じゃあ待ってる」


急接近ー!!!!


できるだけ落ち着いた声で言ったけど、内心飛び跳ねそうだった。心臓じゃなく、足が。飛び跳ねて喜びたかった。これはヤバいやつだ。マリちゃんと帰る…わずか数週間でそんなところまで近づけたのか。恐ろしい。ちょっと待ってると、彼女は裏口から駆け足で出てきた。白と黒で大人っぽい服装をしていた。髪を下ろしてるの、初めて見た。可愛い……。何度か口からこぼれてしまって、彼女は照れた。可愛いだなんて死ぬほど言われてるだろうに。そんな反応されたら余計に可愛い。俺はこの時点でだいぶ浮ついていて、マリちゃん可愛いってことしか頭に無かった。何度か気の抜けた返事をして、彼女に「ねぇ聞いてる?」と心配された。ついでに俺は傘を持っていなかったから、彼女の傘を持って2人で相合傘をして歩いた。こんなこと高校生の時にもしたことなかった。


「ねぇショーゴくん、帰る前にどこか寄ってく?」

「あ……うん。映画とか?」

「為崎の映画館、遠いからだめ。DVD借りようよ」

「映画館はダメか。俺んちDVD観れないよ?」

「じゃあ、あたしの家で観よっか」


う、うわあ、小悪魔だ。この確信犯的なやりとりからして、彼女は慣れてるんだ。もうこの先のことも分かってるんだ。そういうリードしてくれるの、案外男は好きなんだよ。いいなぁ、マリちゃん。これおうちデートってやつか。デートっていうか、まだ付き合ってないけど。でも時間の問題だなこれは。それにしてもDVDって、この展開定番すぎだろ。途中から内容覚えてないみたいなやつ。あー、俺、今日、帰らないかもな。そうなっちゃうかな?なるよな?うん。俺がレンタル屋の中でふらふらしてると、彼女は迷わずにDVDを持ってきた。「これ、もう映画館で終わっちゃったやつ。観ていい?」なんでもいいですとも。それ、俺ちょうど昔の彼女と見たことあるけど。全然いいです。君と観たいです。レンタル料はもちろん俺が払った。やっすい。映画だったら三千円近くするのにな。家に行けて100円って、世の中のカップルに良心的すぎる。俺はレンタル屋に感謝した。彼女の家へは、電車に乗って俺の住んでる方からより遠ざかるらしい。そういえば、雨はいつの間にか止んでいた。晴れたしどこか行く?と提案されないかヒヤヒヤした。いや、別にどっか行くのもいいんだけど、それをすっ飛ばして一旦ここまで来たのだから今さら引き返すのは辛い。肉体が辛い。申し訳ないがもうそんなことしか考えられなかった。俺は男だ。小悪魔を前に理性の皮を被るのでいっぱいいっぱいすぎる。人の少ない電車で何駅か過ぎて降りた場所は、初めて来る所だった。それはこの先も来る機会なんてなさそうな……。なんていうか、とても静かだった。住宅街で、高い建物が多い。俺の家の近くみたいな落書きはほとんどなかったけど、かといって平和な賑やかさもなかった。ただ無音で、2人だけが歩いていた。実際、2人だけしかこの場所にはいないと錯覚した。


「ここだよー、あたしの家」


彼女が指差した建物はマンションだった。軽く15階建てくらいはあるんじゃないかと思う。見上げながら、言葉を失った。バイトやってるだけにしては、やたら高級そうな建物だ。これ、家賃いくらするんだ。エントランスによくある認証ゲートは無かったけど、この辺自体が異様に厳かな雰囲気だったから、多分安全なんだろうと思う。彼女の部屋の扉には表札が無かった。そういえば、ポストの中も確認してなかったな。どうぞと言われて中へ進むと、やっぱり部屋は広かった。2L?3L?これ、1人じゃ寂しいわ。俺が住んであげるべきだ。そんなつまらないことを考える。


「すげーね。超リッチじゃん。俺の部屋来なくて良かったと思うよ」

「またまたぁ」


いや、ほんとに。これは俺の家に来てたらリビングで「ここが玄関?」って言われる狭さだった。DVDのプレーヤー無くて良かったー!!でもこの広い部屋に何か違和感も感じる。シンプルすぎるのだ。俺の想像では、こう、もっと女の子女の子してる部屋のはずだった。ピンクのカーテンとかぬいぐるみとかある感じの。ただの想像だけど。今目の前にあるのは、白いカーテンにリビングの机とか冷蔵庫、寝室の薄型のテレビとベッドと……これはなんだろう、書斎?紙が積み上がってる机があった。なんだこれは。意外に勉強家なのか?密かに大学に入る夢でもあるのか?彼女は何も言わずに、その寝室のDVDプレーヤーをいじっていた。この部屋に関してなにも言わないってことは、聞かれたくないんだろう。俺も余計なことは詮索しない。


ショーゴくん、これ起動してくれないよ。ごめん。あたし、機械音痴なんだよね」

「俺がやるよ。DVD貸して」

「うん、ありがとう。あたし、髪濡れちゃったしシャワー浴びてくるね」

「うん」


うん……えっ?!


これは何のサインだ?シャワー浴びてくるねって、いやらしすぎる。小悪魔め……。興奮して集中できない。集中できないからか、なんだこのプレーヤー起動しないぞ。おいおい、ていうかこれテレビに繋がってないじゃん。マリちゃんどんだけ機械音痴なんだよ。可愛いよ!DVDは無事に動きそうだから、ベッドの端に座りながら周りを見渡した。目ぼしいものは特にない。ないというか、ホントに何も無い。家具が少ないからか、部屋の音が反響して、シャワーが床に当たる音がここまで聞こえてくる。彼女がシャワーを浴びてきたら、次に俺がシャワーを浴びるべきなのか?それは置いておいて、とりあえずDVDを観るのか?そもそも俺はどのタイミングで付き合おうと言うのか?セックスが先か付き合おうが先かどっちが正しいんだ?俺は気持ちを整理しようとして、よけいにぐるぐるかき混ぜていた。ドライヤーの音が聞こえる。彼女は律儀に髪を乾かしているらしい。きっちりしてるなぁ。俺もシャワー浴びたあと、髪乾かしたほうがいいかなぁ。


『ガチャッ……』


え?

ガチャ?


心臓がひやりとした。紛れもなく玄関が開いた音だ。でも俺達が部屋に入るとき、マリちゃんが鍵をちゃんと閉めたのは覚えてる。しかもいま、鍵を開いたような音も聞こえた。どういうことだ。泥棒なのか?!ピッキング能力のある泥棒か。もしくは可愛い彼女を襲うストーカーか?!俺は撃退しなくちゃならないのか?!焦っていると、彼女がすごい勢いで部屋に入り込んできた。


「ごめん!絶対に静かにしてて!どこか隠れてて!隙ができたらすぐ逃げて!」


マリちゃんTシャツ1枚で下パンツなんだけど。パンツ丸見えなんだけど。そりゃだめでしょーそれは誘ってるよアウトだろ……えっ?


「え…?」


必死そうな彼女が言ってることを、うまく理解できなかった。とりあえず静かに、隠れてて、それで……逃げる?え、なんで俺だけ?マリちゃんは1人で立ち向かう気なのか?泥棒もしくはストーカーに?


疑問だらけのまま、とりあえず俺は言われたとおりベッドの下に隠された。放心状態の俺を放置して、マリちゃんはパンツにTシャツのままで、すぐ向こうの部屋に行ったみたいだ。声が聞こえる。


「雨降ってたの?」

「うん……ていうか、由井、なんで帰ってきてるの?どうしたの?いきなり」

「うん。鶴水がさ、3階から車の上に飛び降りて僕の車ヘコませたからねェ、そのままカーブ切って振り落としてきた」

「それで事務所に帰るのが、こっちに帰ってきたの?」

「うん。寝るから邪魔しないでね。あと浴室の換気扇回してきて」

「う、うん」


マリちゃんは浴室に向かったみたいだった。


????????


全然分からない。意味が分からない。男の低い声がしてて、その声にマリちゃんはやけに親しげで、事務所?3階から?カーブで振り落とした?ぶっ飛んだ内容の会話が俺に理解をさせてくれない。誰だよこの男。普通じゃないことは分かる。冷や汗が止まらない。これはどうやらマジらしい。しかも例の足音がこっちに向かって来る。あー、しかも迷わずこっちの方来てるんですけどマリちゃん俺を1人にしないでーこれヤバイ見つかったらどうしよう逃げられな


「みーつけた」


オギャアアアアアアアアアアアーーーーーーー!!?!?!!!!??!!


実際は声すら、出なかった。男は屈んでこっちを覗き込んでてそれでうつ伏せになってた俺の右目に冷たくて黒いなにかを突き付けてきて俺は身動きしないまま視線だけ動かすとその黒は男の持ってる銃で俺はそのとき本物の銃を初めて見たしなんでこの男が当たり前のようにそれを持ってるのかわからないしそれがまさか俺に突き付けられるなんて今まで生きてきた中でこれっぽっちも可能性として考えてなんかいなかった。ていうか普通考えないだろ。怖すぎて息ができない。全身が震える。瞬きしたら殺される。コイツは正真正銘ヤバイ奴だ。もうだめだ。俺死ぬのか。


「由井ごめんなさい!!」


男の後ろから、走ってくるマリちゃんの声がした。


「あのね、DVD観ようとしてただけだから……なんにもしてないから」

「うん。そう?僕はそんなこと気にしてないよ。ていうか、はは、DVD観て帰らせるのは酷でしょ。家まで呼んでおいてねぇ?」

「ほんとだもん……!」

「ハ、本当じゃなくてもいいさ」


「飛んで火に入る夏の虫」、と男は確かに呟いた。俺の目を真っ直ぐ見ていて、だから俺はその人を殺す目と銃を交互に見た。そいつはよくいる強面の大男とかではなく、薄い水色の髪をした、映画の中の一人みたいな雰囲気で。言うならば、まさに軽薄で目的のためにあっさりと人を殺しそうな。男は笑ってた。笑ってたようで、それは全然笑ってなくて、ただ楽しそうなのは分かる。人は、怒ってるよりも楽しんでるがよっぽど怖いのだと知った。


「お願い、それしまって」

「……」

「悪くないもん、あたし……。由井、ぜんぜん帰ってこなくて……さ、寂しかった」

「はぁ……はいはい」


マリちゃんは泣き出していた。男は素直に銃をしまってこちらを覗き込むのをやめ立ち上がったので、俺はようやく十分に呼吸ができた。「マリ。おいで」泣いてるマリちゃんは男の声に従ってベッドに座ったようだった。呼び捨てかよ。マリちゃん呼びの俺は敵わないってか。そういえば、俺が呼び捨てで呼ぼうとしたとき「恥ずかしいから呼び捨てはやめて」って言われたっけ。そういうことだったのか。この男だけがそういう関係になれるわけだ。俺は何も分かってなかったのだ。そしてベッドの下にいる俺は次に考えた。この後、どうすればいい?


「んん……あっ」


甘い声。が、響く。ベッドが軋んだ。ちょ、えええ、ちょっと待って何これ、俺まだベッドの下なんですけど、始めるの待ってくれませんか?!俺どうすればいいんだよ?!は?!急いでベッドから這い出てとりあえず書斎の下に入り込むともう2人とも俺のことなんて全然見てなくてTシャツをたくし上げられたマリちゃんは男の下であんあん言ってるしさっきまで俺のこと確実に殺そうとしてた人は背中向けてガン無視だし辛い。マリちゃんとそうなるのは俺のはずだったのに。マリちゃんをあんあん言わせるのは俺だったのに。ふざけんな。彼女は脚が細くてきれいでおっぱいも大きかった。俺が触るはずのおっぱいは別の男のものだった。たまに「ゆい、すきぃ」みたいな声が漏れるから耳を塞ぎたかった。男はその間特に何も言わなかった。まるで好きな人のAV出演を見せられてるみたいだった。そんな、きれいで汚いノンフィクションの光景。男のシャツがはだけて見えた首元には、おそらく背中に彫り込まれているであろうイレズミがちらりと見えた。そういえばさっき覗き込まれたときも、片目には傷があったような、なかったような気がする。彼女、ヤバイ男と一緒にいるんじゃないか。そして、一番手を出したらいけない女の子に俺は手を出そうとしていたらしい。未遂だけど。怒りと恐怖に震えたいのに俺の下半身は素直にマリちゃんのカラダに反応してて、やり場のない欲望を抱えて、俺はやっと覚悟を決めて部屋を飛び出した。『バキッ』レンタルしたばかりのDVDのケースを慌てて踏んづけた音が水音に混じって部屋に響いた。2人はそれに全然反応してなかった。まるで、俺なんかもういないみたいに。


残酷だ。残酷すぎる。一目散にマンションから出て、俺がさっきまでいた部屋の方を見上げた。……つまりだ。あの部屋はホントはマリちゃんじゃなくて曇り空みたいな髪の色した怖い男のもので、だからこんな高級そうなマンションだったんだ。……ほら、最初からこの為崎はさんざんな街だった。ならやることは決まっている。明日にでも部屋を売り払って、引っ越さなければならない。だって、ひと夏の恋に強制的に一区切りがついたことだし。ただ、ついでに「あの男」にもし顔でも覚えられていたら、今後生きていくのさえちょっと大変だ。恐怖からなのか失恋からなのか分からない涙が浮かぶから、止めたくて拳を強く握る。それでも脳裏によぎった彼女の笑顔は美しかった。一生思い出したくないのに。忘れたい、忘れろ、忘れろ全部。

 

 

彼女の災難→俺の災難